インディアンとの外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:48 UTC 版)
「エドマンド・アンドロス」の記事における「インディアンとの外交」の解説
1687年、ヌーベルフランスの総督デノンヴィーユ侯爵が、現在のニューヨーク州西部にあったセネカ族の集落に攻撃を掛けてきた。その目的はオールバニのイングランドとセネカ族が属していたイロコイ連邦との間の交易を妨害することであり、アンドロスがニューヨーク総督時代に交渉した盟約のチェーンを壊すことだった。ニューヨークの総督トマス・ドンガンが援助を要請し、国王ジェームズ2世がアンドロスに支援を行うよう命令してきた。ジェームズはフランス国王ルイ14世とも交渉し、フロンティア北西部での緊張関係を和らげられた。しかし、ニューイングランドの北西フロンティアではアベナキ族がイングランド開拓者に対して不満を募らせており、1688年初期には攻勢を始めた。アンドロスはその年初期にメインに遠征を開始し、多くのインディアン集落を襲撃した。また交易基地も襲撃し、ペノブスコット湾沿いのジャン=ヴィンセント・ダバディ・ド・サン=カスタンの家も襲った。カトリックであるカスタンの礼拝堂を注意深く残したことは、後にアンドロスに対する「教皇支持者」という告発に繋がることになった。 アンドロスが1688年8月にニューヨークの統治を引き継いだとき、オールバニでイロコイ族と会合し、盟約を更新した。この会合ではイロコイ族を「兄弟」(対等の関係を示唆する)ではなく、「子供たち」と呼んで(イングランドに対する臣従を示唆している)彼らを困らせた。アンドロスはアベナキ族がニューイングランドのフロンティアを攻撃しているさなかにボストンに戻った。アベナキ族はフランスが奨励していることもあって、攻撃していることを認めていた。 アンドロスがニューヨークに居た間、メインにおける状況は再度悪化し、イングランド人開拓者がインディアンの集落を襲い、捕虜を取っていた。これらの行動はボストンに残っている自治領評議員が発行する指示に従っており、フロンティア民兵隊の指揮官は襲撃に参加していると疑われるアベナキ族ならば誰でも拘束することになっていた。この指示がメインで問題を生じさせた。女性子供を含むアベナキ族20名が植民地民兵隊によって捕虜にされた。地方の当局は捕虜を収容する場所の問題に直面し、先ずファルマスに、続いてボストンに送って、地域のインディアンを怒らせ、捕虜の安全な帰還を確保するためにイングランド人を捕虜にした。アンドロスはメインの住民が是認されていない行動をとったことを非難し、インディアンを釈放し、メインに戻すことを命じた。捕虜交換の時に短時間の交戦が起こり、イングランド人捕虜の4人が死んだために、メインでは不満が爆発した。アンドロスはこのような不協和音に直面し、それなりの戦力を率いてメインに戻り、開拓者を守るために追加砦の建設を始めた。その年の冬はメインで過ごし、イングランドでの革命とボストンでの不穏の噂を聞いた3月にボストンに戻った。
※この「インディアンとの外交」の解説は、「エドマンド・アンドロス」の解説の一部です。
「インディアンとの外交」を含む「エドマンド・アンドロス」の記事については、「エドマンド・アンドロス」の概要を参照ください。
- インディアンとの外交のページへのリンク