戦闘の後と遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/14 15:05 UTC 版)
「セントジョンズ砦包囲戦」の記事における「戦闘の後と遺産」の解説
セントジョンズ砦降伏の報せを受けたカールトンは即座にモントリオールから脱出する準備を始めた。大陸軍が抵抗もなしにモントリオール市に入った日の2日前、11月11日にカールトンは市を離れた。その艦隊がソレルの砲台から脅しを受けて降伏した後、カールトンは何とか捕虜になるのを免れ、ケベック市の防衛準備のためにケベック市に向かった。 この包囲戦の間に両軍が受けた損失は比較的軽かったが、大陸軍は病気のためにかなりの勢力を減じていた。さらに包囲が長期にわたったことは、大陸軍が冬の迫る中でケベックに移動しなければならないことと、徴兵した兵士達の多くは年末の徴兵期限が迫っていることも意味していた。セントジョンズ砦とモントリオール市を占領した結果、モントゴメリーは12月9日に少将に昇進した。しかしモントゴメリーがそれを知ることはなかった。12月31日に行われたケベックの戦いでモントゴメリーが戦死する前に、ケベック市外にいた大陸軍の宿営地にその報せが届かなかった。 1776年、イギリス軍は、大陸軍がタイコンデロガ砦まで後退する間にセントジョンズを放棄した後で、砦を再占領した。イギリス軍(およびカナダ軍)の部隊はそこを1995年まで占領しており、1952年以降はロイヤル・ミリタリー・カレッジのキャンパスとして利用されている。砦の中にはセントジョンズ砦の350年間にわたる軍事史を展示する博物館が建っている。
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