戦闘の後およびティンバークラッド襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:55 UTC 版)
「ヘンリー砦の戦い」の記事における「戦闘の後およびティンバークラッド襲撃」の解説
戦闘が75分間続いた後、ティルマンは、砦に対して攻撃し400ヤード (360 m)の距離に迫っていた船隊に対して降伏した。船隊からでた1隻の小さなボートが砦の出撃路を直接通って中に入り、USSシンシナティでの降伏儀式のためにティルマンを乗せて運んだが、このことで洪水の程度が分かる。12名の士官と82名の兵士が降伏した。その他の損失は戦死15名と負傷20名だった。脱出した軍隊はその大砲や装備の全てを後に残していった。ティルマンは収監されたが、8月15日には捕虜交換で釈放された。 ティルマンはその報告書で、ヘンリー砦は「惨めな軍事的位置にあった。...軍事工作史にもこれほどのものは無い」と苦々しく書いた。グラントはハレックに宛てて簡単な報告書を送った。「ヘンリー砦は我々のものである。...8日にはドネルソン砦を奪取して破壊し、ヘンリー砦に戻る。」ハレックはワシントンに電報を送った。「ヘンリー砦は我々のものである。我が軍旗がテネシー州の大地に再度打ち立てられている。もう取り払われることはない。」 皮肉な事実ではあるが、グラントが北軍の他の将軍と同様慎重であり、その出発が2日遅れておれば、戦闘は起こらなかった。というのも2月8日にはヘンリー砦が完全に水に浸かっていたからである。それでも北部の大衆はヘンリー砦を栄光有る勝利として扱った。2月7日、砲艦のシンシナティ、セントルイスおよびエセックスは汽笛を鳴らしてカイロに凱旋したが、南軍の軍旗を上下逆に掲げていた。「シカゴ・トリビューン」は、この戦闘が「世界の戦史の中でも最も完璧で目覚ましい勝利の一つ」だと書いた。 ヘンリー砦の陥落でテネシー川はアラバマ州境まで北軍の砲艦と船舶交通が自由となった。このことは直ぐに実証された。降伏から直ぐ後に、フットはフェルプス大尉の3隻の木製被覆艦タイラー、コネストーガ、およびレキシントンを上流に送って、軍事的な価値のある施設や補給所を破壊させた(船隊の鋼製被覆艦は砲撃による損傷を受けていたので、南軍の船舶を追跡することを含む当座の任務には遅すぎて操船ができなかった)。この襲撃は航行可能な限界点アラバマ州フローレンスを過ぎてマッスルショールズまで及んだ。北軍の船舶とその襲撃隊は、多くの補給所と25マイル (40 km)上流のメンフィス・アンド・オハイオ鉄道の重要な橋を破壊した。また、サリーウッド、マッスル、および鋼製被覆艦で建造中だったイーストポートを含み様々な南部の船舶を捕獲した。北軍の船舶は2月12日に無事ヘンリー砦まで戻ってきた。しかし、フェルプス大尉はこれが無ければ成功だった襲撃の間に大きな失敗をしでかしていた。フローレンスの町の市民はフェルプスに、その町やメンフィス・アンド・チャールストン鉄道の鉄道橋を見逃してくれるよう求めた。フェルプスはその橋に軍事的な重要性が無いと判断して同意すると伝えた。しかしその橋を失っておれば、実質的に南軍の戦線を2つに割ることができたはずだった。ジョンストン軍がシャイローの戦いの準備のためにミシシッピ州コリンスに向かう途中で通ったのがこの橋だった。 2月16日にドネルソン砦がグラント軍に降った後で、西部南軍の主要輸送路の2つが、北軍の軍隊や物資を動かす幹線になった。グラントが想像していた様に、この動きはコロンバスにいる南軍の側面を脅かすことになり、その後間もなく南軍はコロンバス市とケンタッキー州西部から撤退することになった。
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