セントジョンズ砦への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
「カナダ侵攻作戦」の記事における「セントジョンズ砦への接近」の解説
スカイラーがまだインディアンと協議していた8月25日、モントゴメリーはセントジョンズ砦で建造中の船舶が完成間近であるとの報せを受け取った。モントゴメリーはスカイラーが不在であること(さらには行動を承認する命令が無かったこと)を利用し、タイコンデロガ砦で集めた兵士1,200名を率いてリシュリュー川沿いのイル・オ・ノワにある前進基地に向かい、9月4日に到着した。このとき病気になっていたスカイラーは途中でこの部隊に追いついた。スカイラーはその地域でアメリカ側を支援するために地元の民兵隊立ち上げの準備をしていたカナダ人ジェイムズ・リビングストンに伝言を送り、モントリオール南の地域を巡回するよう伝えた。翌日、この部隊は川を下ってセントジョンズ砦に向かい、その防御の度合いを視察し、両軍共に損失を出した簡単な小競り合いの後でイル・オ・ノワまで撤退した。この小競り合いのときイギリス軍側で戦ったのはインディアン達が大半であったが、砦の方からは支援が無かったので、インディアン達はこの紛争から身を退くようになった。また、オナイダ族が地域に折りよく到着したことで、イギリス軍に対する別のインディアンからの援軍も遮られた。オナイダ族はモホーク族戦士隊がコーナワガからセントジョンズ砦に向かっていたのを妨害した。このときモホーク族の村にはガイ・ジョンソン、ダニエル・クラウスおよびジョセフ・ブラントらが来てモホーク族の援助を得ようとしていたが、オナイダ族はモホーク族に自分の村に戻るよう説得した。オナイダ族はジョンソンやクラウスと直接会うことは拒否し、ブラントやモホーク族の面々にオールバニでの同意事項の条件について説明した。結局ブラントとイギリスの代理人は支援の約束をとりつけることも無くその場を去った(イギリスのより公式な扱いでは、ガイ・ジョンソンが7月にイロコイ族に与えた戦いの帯は1775年12月にアメリカ側インディアン・コミッショナーに渡された)。 この最初の小競り合いの後でスカイラーの病気が重くなり、指揮を続けられなくなったので、指揮権をモントゴメリーに譲った。スカイラーは数日後にタイコンデロガ砦に引き返した。モントゴメリーは、9月10日の攻撃でも兵が混乱するなどして失敗したが、コネチカット、ニューハンプシャーおよびニューヨークからの支援部隊800ないし1,000名とグリーン・マウンテン・ボーイズの一部が到着したので、9月17日に遂にセントジョンズ砦とその傍の町の包囲を開始、モントリオールと連絡網を遮断して砦に向かう物資を捕獲した。翌週イーサン・アレンは、単に地元の民兵を徴募しろという指示を受けただけだったにもかかわらずその指示を逸脱し、少数の部隊でモントリオールを占拠しようとしてロングポイントの戦いで捕虜になった。この出来事で、短期的にはイギリス軍を支援する民兵の士気が上がったが、効果は長続きせず、その後には脱走者が続出した。 セントジョンズ砦はシャンプレーン湖の北端にあり、リシュリュー川を通ってカナダに入る要衝だった。砦にはチャールズ・プレストン少佐の指揮で300名の歩兵正規軍がおり、この植民地では最も防御を構えた町だった。大陸軍は病気、悪天候、兵站の難しさに災いされたが、迫撃砲を据えて砦の中まで貫通弾を打てるようになった。砦の弾薬は十分にあったが、食糧などの物資は乏しくなった。プレストンは、2,000名の部隊と共にモントリオールに駐屯しているガイ・カールトン将軍に援軍を要請した。しかし、カールトンはケベック市の安全を損なうことに気が進まず、援軍を送ることを拒絶した。この判断ミスによってカールトンはモントリオールを失い、後にはケベックシティで彼自身が包囲されることになる。 10月18日、大陸軍はイギリス軍の小さな前哨基地シャンブリー砦を落としたことで、プレストンを完全に孤立させた。セントジョンズ砦は毎日砲撃され、砦の中は着実に破壊されていったが、プレストンは砦の守備を続けた。10月30日にガイ・カールトンが砦の包囲を解こうとした試みが失敗し、結局、プレストンは10週間の包囲後の11月3日に、援軍のあてがなく、来るべき冬の厳しさに備えて住民の助命を望み降伏した。。
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