ベニントンの戦いとは? わかりやすく解説

ベニントンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/16 22:37 UTC 版)

ベニントンの戦い

ベニントンの戦い記念碑
戦争アメリカ独立戦争
年月日1777年8月16日
場所バーモント共和国ベニントンに近いニューヨーク植民地
結果:大陸軍の決定的勝利
交戦勢力
バーモント、ニューハンプシャー愛国者軍民兵 イギリス軍、ドイツ人傭兵部隊
指導者・指揮官
ジョン・スターク フリードリッヒ・バウム
戦力
2,000 1,250
損害
死者40、傷者30 死者207、捕虜700
アメリカ独立戦争

ベニントンの戦い: Battle of Bennington)は、アメリカ独立戦争中の1777年8月16日に起こった戦いである[1]バーモント共和国ベニントンの近くで起こったので、名前はベニントンの戦いとなっているが、実際の戦場は境界を越えて数マイルニューヨーク植民地に入ったワルームザックであった。ジョン・スターク将軍とセス・ワーナー大佐に率いられたニューハンプシャーとバーモントの愛国者軍民兵約2,000名が、フリードリッヒ・バウム中佐率いるドイツ人傭兵部隊とカナダ兵、王党派兵およびインディアンの連合軍約1,250名を破った。

背景

1777年夏、イギリス軍ジョン・バーゴイン将軍はカナダからハドソン川峡谷に侵攻し、サラトガ方面作戦を進めていた。ハバードトンやタイコンデロガ砦でのイギリス軍の勝利に続いて、バーゴインは近くの大陸軍を駆逐し、南のオールバニを手に入れればハドソン川峡谷を制し、13植民地の勢力を2つに割ることができると見ていた。

しかし、バーゴインのオールバニへの進行速度は大陸軍の引き伸ばし戦術に逢って遅れ、物資が乏しくなりかけていた。バーゴインはミラー砦からフリードリッヒ・バウム中佐の指揮で約800名の分遣隊を発することにした。分遣隊の半分はドイツ人傭兵部隊であり、残り半分はカナダ兵、王党派兵およびインディアンの戦士であった。バウムに与えられた任務はベニントンの大陸軍倉庫を襲い物資を確保することだった。ベニントンには400名足らずの植民地民兵が守っているとの情報を得ていた。

8月13日、ベニントンへの途上で、バウムはジョン・スターク将軍の指揮するニューハンプシャーの愛国者軍民兵約1,500名がその地域に到着したことを知った。バウムはベニントンの西約4マイル (6 km)のワルームザック川で行軍の停止を命じた。バウムはミラー砦に援軍を要請した後、そこの地形を利点にするべく高地に部隊を配置した。雨になったのでバウム隊の兵士は塹壕を掘り、援軍が到着するまで雨がアメリカ軍の攻撃を止めておいてくれることを期待していた。スタークも数マイル先に部隊を配置しバウム隊の位置取りを偵察して天候の回復を待つことにした。

戦闘

8月16日の午後、雨が上がり、スタークは部隊に攻撃の準備を命じた。スタークは部隊の兵を鼓舞するために、「あそこに敵の赤服と王党派がいる。やつらは我々のものだ。さもなくばモーリー・スターク(スタークの妻)は今夜やもめで眠ることになる」と言ったという話である。これを聞いた民兵達は森の中に溶け込んでいった。バウムは愛国者軍が撤退しているか再配置をしているものと思っていた。しかしスタークはバウムが横に大きく広がっていることが分かったので、即座に2方向から敵軍を包み込み同時にバウム軍の中央の防塁に攻撃を掛けることにした。スタークの作戦がつぼにはまり、王党派兵とインディアン達は逃亡した。このためにバウムの竜騎兵隊は馬が無いままに高地に取り残される形となった。ドイツ人部隊は弾薬が乏しくなっても果敢に戦い続けた。竜騎兵はサーベルを揮って攻撃を仕掛け突破口を開こうとした。しかし、この決死の攻撃にも失敗して、バウムが瀕死の重傷を負ったためにドイツ人傭兵部隊は降伏した。

この戦闘が終り、ニューハンプシャー民兵がドイツ人の武装を解除している時に、バウムの援軍が到着した。その援軍の指揮官ハインリッヒ・フォン・ブライマン中佐は愛国者軍が隊形を乱しているのを見て即座に攻撃を仕掛けた。スタークスは即座に陣形を立て直し、ドイツ人部隊の攻勢に対し必死に陣地を守ろうとした。その戦列が崩壊寸前になった時、数百名のバーモント民兵が援軍に到着した。バーモントのグリーン・マウンテン・ボーイズを率いるセス・ワーナーは直前のハバードトンの戦いでイギリス軍の援軍に敗れており、復讐の念に燃えていた。合流したニューハンプシャーとバーモントの民兵は反撃し遂にフォン・ブライマンの部隊を崩壊させた。

結果

ベニントンの戦いでのイギリス軍の損失は、バウム中佐を含め200名が戦死、捕虜700名と記録された。愛国者軍の損失は戦死40名、負傷40名であった。バウムの敗因は、バウム自身に実戦の経験が乏しく、陣形の取り方が散開していたために、互いの連絡が取りづらかったことによっていた。反対にスタークは数々の戦闘を経験したつわものであり、相手の陣形を見極めてその弱点を衝いた。バウムの援軍を率いたフォン・ブライマンは、バウムとの仲が悪くわざと到着を遅らせたという説もある。(Friedrich Baumを参照)

スタークが、敵がベニントンに着く前にこれを遮り破壊したことが決め手となり、イギリス軍は物資に乏しいまま最終的にはサラトガの戦いの後でバーゴインの降伏ということになった。

ベニントンでの愛国者軍の勝利はその士気を奮い立たせ、フランスがアメリカ側で参戦する引き金にもなった。

今日、ベニントンの住人はこの日をベニントンの戦いの日と呼んで祝っている。アメリカでも最古と言われる大砲、その名もモーリー・スターク砲で祝砲を放つ。

8月16日はバーモント州の祝日でもある。オールド・ベニントンには高さ306フィート (93 m)の記念碑が立っている。

関連項目

参考文献

脚注

  1. ^ Bennington Battle Monument Research”. An Official Vermont Government Website. State of Vermont. 2025年8月16日閲覧。

外部リンク


ベニントンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)

サラトガ方面作戦」の記事における「ベニントンの戦い」の解説

詳細は「ベニントンの戦い」を参照 バーゴインのイギリス軍タイコンデロガ砦近付いた時のようにエドワード砦に進む時もインディアン部隊先導しスカイラー残して行った少数分遣隊蹴散らしていった。これら同盟インディアン達は辛抱できないようになり、近辺開拓地家族集落無差別に襲い始めた。このことは大陸軍対す地元支援を減らすよりも逆に増加させる方に動かしたロイヤリスト開拓者魅力ある若者だったジェーン・マクリアがインディアンの手掛かって死んだことが広く宣伝され地域住民大陸軍支持に回る触媒になった。バーゴインが犯人罰しない決めたことは、インディアン統制下に置いておくつもりが無く、あるいはできないこととして見られた。 バーゴインの軍隊がスキーンスボロからエドワード砦まで丁度5日間で行ったとしても、荒野の中の荒々しい道に対処することのできる荷車とそれを牽引する動物無かったために輜重隊おくれたので、軍隊そのものも遅れを生じた8月3日ハウ将軍からの伝令初め大陸軍前線突破してエドワード砦のバーゴイン軍宿営地着いたイギリス軍将軍達通信取ろうとして何度も試みていたが、その伝令が捕獲され処刑され達成されていなかった)。この伝令は良い報せをもたらさなかった。7月17日ハウ書いたその報せには、海上フィラデルフィア占領向けて出発する準備をしているので、ニューヨーク市防衛責任者クリントン将軍が「何か起こったときに指示をする」と書かれていた.。バーゴインはこの伝言の内容をその参謀達に洩らそうとしなかった。 この頃バーゴインは兵站問題深刻になってきたのを認識し7月にリーデゼル男爵提案してた行動を起こす決断をした。バーゴインがスキーンスボロに居る間にリーデゼルの部隊暫くキャッスルトンに駐屯させており、リーデゼルはその地域には牽引用の動物や馬が豊富であり、捕まえれば軍のためになる主張していた(リーデゼルの竜騎兵隊はこのとき馬を持っておらず、その部隊に馬を与えられるという利点などがあった)。8月9日にバーゴインはフリードリヒ・バウム大佐連隊ブラウンシュヴァイク竜騎兵と共にマサチューセッツ西部ニューハンプシャー勅許地に送った。このバウム分遣隊戻ってくることはなかった。その補強に向かわせた部隊8月15日のベニントンの戦いから疲れきって戻り、1,000人近兵士と共に大変必要とする補給物資失われた。バーゴインが気付いていなかったことは、タイコンデロガ砦からの撤退後セントクレア呼びかけていた民兵隊の支援が行われていたことであり、ジョン・スターク将軍ベニントンに2,000名の部隊配置したスターク隊はバウム隊を取り囲みバウム殺しその分遣隊の大半捕獲した。 マクリアの死とベニントンの戦いの結果は、アメリカ人にとって鬨の声として機能しただけでなく、他にも重要な効果生んだ。バーゴインはマクリアの死について同盟インディアンカナダ人非難し、またインディアンベニントン80名を失った後でも、労いの言葉もなかった。その結果として、ラ・コルヌとインディアン大半イギリス軍宿営地離れ、バーゴインの下には100名足らずの斥候インディアン残ったけだった。バーゴイン軍は森の中でアメリカレンジャーズに対して防御が無い状態にされた。バーゴインは後にラ・コルヌが脱走したとして非難したが、ラ・コルヌはバーゴインがインディアン尊重することが一度無かった反論したイギリスの議会ではジャーメイン卿がラ・コルヌの肩を持った

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