ベニントンとその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/29 14:24 UTC 版)
「ジョン・スターク」の記事における「ベニントンとその後」の解説
4ヵ月後、スタークはニューハンプシャー民兵隊の准将に任官された。スタークは大陸軍指導部に対して責任が取れないような厳格な条件で受け入れた。その任官を受けてから間もなく、フィリップ・スカイラー少将からニューハンプシャーのチャールズタウンを出発し、ニューヨークのサラトガにいる大陸軍を支援するよう命令を受けた。スタークはこの命令を拒否してその代わりに、ベニントンでドイツ人傭兵隊(ヘシアン)と対戦するようその部隊を導いた。スタークはヘシアンとの戦い前に、「あそこに敵の赤服と王党派がいる。やつらは我々のものだ。さもなくばモーリー・スターク(スタークの妻)は今夜やもめで眠ることになる」と叫んで、兵士達に死ぬまで戦うよう鼓舞した。 スタークの部隊はバーモントの民兵隊であるグリーン・マウンテン・ボーイズ(英語版)を率いるセス・ワーナーからの支援もあって、そこのヘシアンを壊走させ、イギリス軍ジョン・バーゴイン将軍の物資補給の企てを防いだ。スタークの行動は、数ヵ月後のサラトガの戦いでバーゴインの北部軍が降伏することに直接貢献することになった。このサラトガの戦いは、イギリス軍にとって最初の大敗であり、フランスをしてアメリカが軍事的援助をする価値のあるものと判断させたことで、独立戦争の転換点と見られている。サラトガの戦いの間、最初の戦闘であるフリーマン農場の戦いの後で、スターク将軍の旅団がスタークス・ノブの陣地に移動して、ジョン・バーゴインの軍隊のジョージ湖やシャンプレーン湖への撤退路を遮断した。 イギリス軍のスパイ、ジョン・アンドレがその諜報活動とベネディクト・アーノルドのウェストポイント砦をイギリス軍に渡す陰謀を援けたことに関する裁判で、スタークは陪審員の一人を務め、アンドレを有罪にした。 スタークは1778年から1781年の間に3度、北部方面軍の指揮官を務めた。
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