フリーマン農場
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「ダニエル・モーガン」の記事における「フリーマン農場」の解説
モーガンはその連隊を率い、ヘンリー・ディアボーンのニューハンプシャー歩兵300名の支援を得て、イギリス主力軍と対峙した。フリーマン農場の戦いでモーガンの部隊は、バーゴイン軍の一翼を担うサイモン・フレーザー将軍の前衛と交戦に及んだ。最初の交戦でイギリス軍の前衛にいた士官全員が戦死し、前衛部隊は撤退した。 モーガンの隊員は命令も聞かずに戦いを続け、ジェームズ・ハミルトン将軍指揮下の主力部隊との交戦で攻撃態勢が崩れてしまった。この時アーノルドが到着し、モーガンと共同で部隊の立て直しを図った。イギリス軍はフリーマンズ農場で陣形を整えようとしていたが、モーガンの隊員は農場の反対側の木陰から正確なライフル射撃でこの陣形を壊そうとした。そこにベミス高地から7個連隊が応援に駆け付けた。 その日の午後、大陸軍の銃火がイギリス軍を釘付けにしたが、接近戦ではイギリス軍の銃剣で跳ね返された。遂にイギリス軍が撤退し、大陸軍は勝どきを上げた。
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フリーマン農場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
バーゴインもアーノルドも大陸軍左翼側面の重要性を認識していた。バーゴインは大陸軍陣地の側面を突けると認識し、その軍隊を2つに分けて、9月19日に大きな部隊を西に派遣した。アーノルドもイギリス軍が自軍左翼を衝いてくる可能性が強いと考え、その動きに対応するためにフリーマン農場へゲイツの部隊を動かす許可を求めた。ゲイツは予想される正面攻撃に対応するために防御線の後で待機したかったので、アーノルドの提案を拒んだ。ゲイツはアーノルドがダニエル・モーガンのライフル銃兵と幾らかの軽歩兵を威力偵察に送ることは許可した。これらの部隊がバーゴイン軍側面に接触したときにフリーマン農場の戦いを起こさせることになった。それに続く戦闘の中で、イギリス軍はフリーマン農場を確保したが、その軍隊の1割にあたる600名の損失を出した。 この戦闘の後で、ゲイツとアーノルドの間の確執が爆発した。大陸会議に送るこの戦闘の公式報告書で、ゲイツはアーノルドについて全く触れなかったばかりでなく、事実上独立してはいたが戦闘中アーノルドの指揮下にあったモーガンの中隊を自分の指揮下に移した。アーノルドとゲイツはゲイツの宿営所で騒々しい議論を行い、その中でゲイツはリンカーン将軍がアーノルドと交代すると告げた。この議論の後でアーノルドはゲイツに手紙を書き、その憤懣を述べ、ワシントン指揮下に転籍してくれるよう要請した。ゲイツはアーノルドに立ち去る許可を与え、アーノルドに対する卑劣な侮辱を与え続けた。アーノルドが残留を選んだ理由について通常言われていることは、ゲイツとリンカーンを除く戦線の士官全員が署名した嘆願書が彼を留まらせたということである。そのような文書に対する提案が検討される一方で、実際に起草され署名されたという当時の証拠は残っていない。 バーゴインは翌日に攻撃を再開することを検討したが、フレーザーが多くの兵士は前日の戦闘で疲れていると言ったときに中止した。それ故に兵士達には塹壕を掘らせ、9月21日にニューヨークのクリントン将軍から受け取った手紙にハドソン川を遡ってゲイツの軍隊を幾らか引き付けるとあったので、南からの支援を受けられる報せを待つことにした。バーゴインは脱走が続いて軍勢を減らしており、また食料やその他重要な物資が不足し始めていることに気付いていたが、大陸軍が日々その数を増やしつつあることは知らず、またゲイツがイギリス軍の宿営地の緊急を要する状況について情報を掴んでいることも知らなかった。
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