タイコンデロガ砦への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「タイコンデロガ砦への攻撃」の解説
サラトガにいる両軍が先の戦闘後まで気付いていなかったことは、リンカーン将軍とジョン・ブラウン大佐がタイコンデロガ砦のイギリス軍陣地に攻撃を掛けていたことだった。リンカーンは9月初旬にベニントンで2,000名の兵士を集めていた。クリントン隊はバーモントのポーレットまで進軍した後で、タイコンデロガ砦の守備隊を急襲できる可能性があるという報せを受けた。リンカーンは3つの分遣隊をそれぞれ500名の兵士で編成し、「敵を悩ませ、分割し、動転させろ」と言って送り出した。1部隊はスキーンスボロに行ってそこがイギリス軍に放棄されていることを見付けた。2番目の部隊はシャンプレーン湖東側のインデペンデンス山の占領に行き、ジョン・ブラウン大佐が率いる3番目の部隊はタイコンデロガ砦に接近した。 9月18日朝、ブラウン隊がジョージ湖とシャンプレーン湖を繋ぐ陸路南端でイギリス軍守備隊を急襲した。ブラウン隊はその道を急速に動いてイギリス軍守備隊に対する急襲を続け大砲を捕獲し、タイコンデロガ砦を前にする高地に到着して、「オールド・フレンチ・ラインズ」を占領した(1758年のカリヨンの戦いでイギリス軍の大部隊に対しフランス軍守備隊がまさかと思うような防衛を行ったのでそう名付けられた)。ブラウン隊は道すがら捕虜になっていた100名を解放し(これでその軍勢を増した)、300名近いイギリス兵を捕獲した。ブラウンが砦の降伏を要求したがこれは拒絶され、その後の4日間ブラウン隊と砦の守備隊は砲撃戦を交わしたが、ほとんど効果は無かった。ブラウンは実際に砦を襲うには兵力が足りなかったので、ジョージ湖まで引き返し、そこで湖上の島にある物資貯蔵所を占領しようとしたが成功しなかった。 ゲイツ将軍はフリーマン農場の戦いがあった日にリンカーンに伝言を送り、サラトガに戻ってくることと、「一瞬でも失われるべきではないこと」を伝えさせた。リンカーンはベミス高地に9月22日に到着したが、最後の部隊が戻ったのは29日のことだった。
※この「タイコンデロガ砦への攻撃」の解説は、「サラトガ方面作戦」の解説の一部です。
「タイコンデロガ砦への攻撃」を含む「サラトガ方面作戦」の記事については、「サラトガ方面作戦」の概要を参照ください。
- タイコンデロガ砦への攻撃のページへのリンク