タイコンデロガ砦の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「タイコンデロガ砦の陥落」の解説
詳細は「タイコンデロガ砦包囲戦」、「ハバードトンの戦い」、および「アン砦の戦い」を参照 バーゴイン軍はシャンプレーン湖を遡り、6月30日には防御されていなかったクラウンポイント砦を占領した。大陸軍がイギリス軍の動きの詳細を分からせないようにするにはインディアンの支援部隊による遮蔽行動が大きな効果があった。大陸軍の約3,000名の正規兵と民兵の守備隊でタイコンデロガ砦と周辺の指揮を任されていたアーサー・セントクレア将軍は7月1日になってもバーゴイン軍の全容が掴めていなかった。バーゴイン軍の主力はわずか4マイル (6.4 km) まで近付いていた。セントクレアはスカイラー将軍から出来るだけ長く持ち堪えてから2つの通りを使って撤退するように命令を受けていた。 7月2日にタイコンデロガの外郭防御工作物で小競り合いが始まった。7月4日までに大陸軍守備隊の大半はタイコンデロガ砦か近くのインデペンデンス砦に入った。大陸軍には分からなかったことだが、外郭防御工作物から撤退したことで、イギリス軍がシュガーローフ(現在のデファイアンス山)と当時呼ばれた丘の上に大砲を据えるための道を明けてしまった。そこからは砦を俯瞰することができた。セントクレアは7月5日にシュガーローフに据えられたイギリス軍の大砲を目撃した後、その夜陰に紛れて撤退し、バーゴイン軍は7月6日にタイコンデロガ砦とインデペンデンス山の陣地を占拠した。難攻不落と思われていた砦が抵抗も無く陥落したことで、大衆からも政治家からも大騒ぎになった。後の調査でスカイラーもセントクレアもこの撤退に落度が無かったことが明らかになったが、大陸会議は8月に大陸軍北部方面軍指揮官をスカイラーからホレイショ・ゲイツに挿げ替えることになった。 バーゴインは退却する大陸軍を追わせるために主力から部隊を派遣し、セントクレアは2つの異なる道を通って南に下った。イギリス軍は少なくとも3度は撤退する大陸軍の部隊に追いついた。フレーザー将軍とリーデゼル男爵の部隊は7月7日のハバードトンの戦いで大陸軍の決死の抵抗に直面し、同じ日には主力の前衛隊がスキーンスボロでピアース・ロングの撤退中の中隊との間に小競り合いがあった。その後7月8日のアン砦の戦いでは膠着状態になり、イギリス軍の先端中隊がほとんど壊滅させられた。これらの戦闘ではイギリス軍が蒙ったよりも約50%多く大陸軍に損失を出させたが、大陸軍は頑強な抵抗を行うことができるとイギリス軍の士官達に示す事になった。バーゴイン軍はタイコンデロガの戦闘の結果約1,500名を減らされることになった。バーゴインはクラウンポイントの火薬庫に400名を、タイコンデロガには900名を守備隊として残し、それに続く戦闘の結果約200名の損失を出した。 セントクレアの部隊の主力はニューハンプシャー勅許地(今日のバーモント州)を通って撤退した。セントクレアは地元の民兵隊の支援を要求する文書を発し、また土地の家畜や物資の多くを大陸軍が再結集することになっていたハドソン川沿いのエドワード砦に運ぶよう手配した。セントクレアは5日間の死に物狂いの行軍の後、7月12日にエドワード砦に到着した。ハバードトンで散り散りになった部隊の残りが主力に合流したが、セス・ワーナーとその連隊の残りはニューハンプシャー勅許地内マンチェスターに留まった。
※この「タイコンデロガ砦の陥落」の解説は、「サラトガ方面作戦」の解説の一部です。
「タイコンデロガ砦の陥落」を含む「サラトガ方面作戦」の記事については、「サラトガ方面作戦」の概要を参照ください。
- タイコンデロガ砦の陥落のページへのリンク