包囲戦の終了
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:19 UTC 版)
アメリカ軍は知らないことだったが、ドラモンドは9月16日に包囲戦を切り上げる決断をしており、その砲兵隊にはできるだけ早くジョージ砦に移動するよう命令を出していた。牽引用の家畜が不足してその出発が遅れていた。最終的にイギリス軍がチッパワ川方面に撤退したのは9月21日夜になってからだった。ドラモンドからイギリス軍北アメリカ総司令官ジョージ・プレボスト中将に宛てた手紙では、続いていた豪雨、兵士の病気、宿営用装備の不足が、包囲戦を切り上げる理由に挙げられていた。戦力として使える兵士は2,000名まで減っており、その宿営地は「深い森の中の湖」の観さえあった。 8月1日から9月21日までの包囲戦全体で、アメリカ軍の損失は戦死104名、負傷250名だった。ただし8月3日のコンジョクタ・クリークでの戦闘、8月12日のオハイオとサマーズの捕獲、8月13日から15日早朝の砲撃戦、8月15日の襲撃、9月17日の出撃は含んでいない。これら損失の29名を除いてはすべてアメリカ軍正規兵だった。この期間に捕虜になったあるいは不明になったアメリカ兵の数は分かっていない。イギリス軍の全体の損失もまた不明である。 現在のアメリカ陸軍には、この包囲戦に参戦したアメリカ軍部隊の後継部隊であるとする部隊が9個存在する。
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