包囲戦に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:40 UTC 版)
「セントジョンズの包囲戦」の記事における「包囲戦に至るまで」の解説
詳細は「アン女王戦争」を参照 1702年にアン女王戦争が始まるまで、英仏両国は何度もニューファンドランドの領有をめぐって争っていた。ウィリアム王戦争中の1690年代に行われたフランスの襲撃で、ニューファンドランドの主要な港であるセントジョンズを含め、イングランドの集落の殆どが壊滅状態となった 。元々ニューファンドランドは、イングランドが1583年に植民地化し、ここを非定住の漁業基地としていた。一方でフランスは、プラセンティアに入植地を築き、イングランド以上に漁船をこの地へと送っていた。 1702年、イングランドの大尉ジョン・リークは、ニューファンドランドのフランス人入植地を襲撃したが、プレザンスへの襲撃を避けた。港にフランスの軍艦が寄港していたためである。1703年、新総督としてプラセンティアに赴いたダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスは、150人規模で、設備もろくになかった駐屯隊の指揮を執った。フェリーランドの襲撃の後、スーベルカスはイングランドの計画的な襲撃を耳にして、彼らの攻撃に備えた。しかし襲撃はなかった。本国で、臆病者として広く知られるイングランドの提督ジョン・グレイドンが、自分たちに大きな利があるにもかかわらず、襲撃を止めてしまったからである。グレイドンはこの後軍法会議にかけられ、指揮を執っていたすべての任務を罷免させられた。その任務の中には、失敗に終わったグアダルーペの戦いも含まれていた。
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