戦後の聖蹟とは? わかりやすく解説

戦後の聖蹟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 08:04 UTC 版)

聖蹟桜ヶ丘」の記事における「戦後の聖蹟」の解説

戦後占領下1948年、対荘と富澤家住宅全国明治天皇聖蹟とともに国の史跡指定解除された。対荘は、風雅な料亭になったが、やがて老朽化して閉店した次第荒れ果て幽霊屋敷ようになった1988年バブル経済のさなか土地開発のため取り壊された。対荘のあった高台には大規模マンション建設され高台一角公園整備された。公園は対にちなんで「対公園」と命名された。園内に「明治天皇行幸所対荘」の石柱立っている。最寄りバス停は「対荘前」のままである。対荘の復元模型作られ旧多摩聖蹟記念館所蔵されている。 もう一つ指定聖蹟であった富澤家住宅は、1990年5月多摩市寄贈された。多摩市はこれを多摩中央公園復元移築した。完全な復元は困難であり、屋根茅葺銅板葺に替えるなど一部変更した2020年現在富澤家住宅多摩市文化財「旧富澤家」として保護公開されている。当地跡地には石柱だけが保存されている。このほか行幸橋(みゆきばし)は1970年架け替えられている。御野立所の碑は桜ヶ丘公園内外いくつか残っているという。 多摩聖蹟記念館その後次の通りである。1968年全国明治百年記念事業が行われた際、多摩聖蹟記念会が記念館の近くに五賢堂建設した明治維新功績のあった岩倉具視三条実美木戸孝允大久保利通西郷隆盛を五賢として、小金丸幾久作製した五賢のブロンズ胸像を五賢堂安置した明治天皇立像同時期に小金丸幾久作製し記念館の本館置かれた。1970年代記念館はテレビ特撮番組研究所や悪のアジトなどとして度々登場した。やがて経年により老朽化進み取り壊し検討された。1986年には多摩市改修管理・運営することになった明治天皇立像記念本館から五賢堂移された。記念館は明治天皇行幸記念する場所から「桜ヶ丘公園訪れた人々憩いの場」へ生まれ変わった。館名に「旧」の字をつけて「旧多摩聖蹟記念館」の名で生きのびた。旧多摩聖蹟記念館多摩市有形文化財指定された。多摩市教育委員会によれば多摩地域近代洋風建築の中で完成度高く、最も優れたものだという。2020年現在多摩市指定文化財あり、か東京都の「特に景観上重要な歴史的建造物」に選定されている。

※この「戦後の聖蹟」の解説は、「聖蹟桜ヶ丘」の解説の一部です。
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