戦後の英仏両国
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「1797年1月13日の海戦」の記事における「戦後の英仏両国」の解説
フランス側の死傷者の計算は困難を伴ったが、ドロワ・ド・ロムの1300人の乗員のうち、103人が戦死し、救出されたのは300人を超える程度だった。2月14日の朝から、1月18日の朝までにドロワ・ド・ロムで死亡した乗員はおよそ900人にも上った。しかしフランスの資料によれば、1月17日と18日に、アロガントとエイギュイユで救出された乗員は500人には上るとしている。これによると犠牲者は400人程度ということになる。1840年に建てられた、プロゼヴェにある事故の犠牲者の碑銘では、犠牲者は600人となっている[要出典]。イギリス側は、アマゾンでは戦死者が3人、難破による犠牲者が3人出て、15人が負傷した。一方インディファティガブルでは、戦死者はひとりもおらず、18人が負傷した。 レイノルズと士官たちは、何週間か後にフランスの捕虜と交換され、慣例により、軍法会議での敗因調査は、法廷の長官それぞれが意見を述べて円満解決した。レイノルズはその後、大型フリゲート艦ポモン(フランス艦ポモーヌ)の指揮官となった。2隻のフリゲート艦の上級海尉は指揮官に昇進し、ヘッドマネー(敵艦の乗員数をもとに割り出した拿捕船の賞金で、負けた側の船が破損した場合に支給される)は乗員たちに支給された。ペリューはその後1年間、ブレスト沖でインディファティガブルの指揮を続け、多くのフランス商船を捕らえた。後にペリューは数度の昇進を経て、1815年、ナポレオン戦争の末期にはエクマス卿となり、地中海艦隊の最高指揮官となった。レイノルズはナポレオン戦争中の1811年、セントジョージ(英語版)の難破により戦死した。ラクロスとユンベールは、艦を失ったことによる非難は受けず、ラクロスは准将から提督に昇進し、後にスペイン大使となった。ユンベールの方は、その次の、そしてやはり成功しなかったアイルランド侵攻軍を率いる計画を立て、バリナマックの戦い(英語版)で降伏した。 イギリスでは、この戦いは当時賞賛され、そして第一海軍卿のジョージ・スペンサーはこう述べた。「かつてこれほどまでに海軍の伝記を彩った偉業はなかったと私は信じている」歴史家のジェームズ・ヘンダーソンは「これは、武器と、航海術のなせるわざであり、かつて見たこともなく、これから見ることもない」そしてリチャード・ウッドマンは、「闇が覆い、または月光が照らす荒れ狂う夜に、航海術が見せたまぶしいばかりの戦闘」と評した。50年後、この戦闘はサービスメダル(英語版)の対象となり、「1797年1月13日、インディファティガブル」と「1797年1月13日、アマゾン」の文字が入ったメダルが、その当時存命であった参戦者へ贈られた。
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戦後の英仏両国
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イギリスもフランスも、この海戦の勝利を主張した。イギリスは終始戦場の主導権を握りつつ、自国の艦を1隻も失わずにフランス艦7隻を捕獲または撃沈した。フランスは自国に不可欠な輸送船団を、大きな損失もなく大西洋を通過させフランスに到着させた。2つの艦隊は、それぞれの国において賞賛と批判を浴びることとなった。批判は戦闘にあまり貢献したと思われない艦長に向けられたものだった。スピットヘッドのイギリス艦隊は、ジョージ3世をはじめとするすべての王族の訪問という厚遇を受けた。
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