ドロワ・ド・ロム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)
「1797年1月13日の海戦」の記事における「ドロワ・ド・ロム」の解説
ドロワ・ド・ロムは、修復不能なほどに損害を受けていた。波が立て続けに、海に落ちた人々をさらに押し流し、ボートを下ろそうという破れかぶれな試みも、小型艇が波に流され、砕け波によって壊されたために実現できなかった。いかだが何艘か組み立てられ、一部のいかだが、艦のロープを支えにして岸に向かおうとしていたが、いかだが水につかってしまい、他のいかだに垂直な姿勢で乗っていたドロワ・ド・ロムの乗員は、荒海に投げ出されるのを防ぐため、ロープを切断せざるを得なくなった。このいかだに乗った数人が海岸につき、この難破の最初の生存者となった。その次に、ロープを支えにしながら泳いで岸に着こうとした者たちは、溺れるか、海が荒れていて艦に戻されるかのいずれかだった。岸から援助するすべはなく、1月14日の日が暮れたが、大部分の乗員たちはまだ艦に残ったままだった。夜の間に、荒波が船尾に穴をあけ、船内の大部分が浸水した。1月15日の朝、カンバーランドの9人のイギリス人捕虜を乗せた小型ボートがどうにかして着岸した。これを見て、ドロワ・ド・ロムから小型のいかだが続々と、上陸できるのではないかという期待のもとに下ろされた。しかしまた波がうねり狂ったため、このいかだで着岸できた者はいなかった。 1月16日の朝には、ドロワ・ド・ロムの艦内は飢餓とパニックに見舞われ、天候が収まった間に、大型のいかだが負傷者、女2人、子供6人を乗せて下ろされた時、120人以上もの元気な男たちが、我先にこのいかだに飛び乗った。このためいかだはかなり定員を越えた状態となり、何分もたたないうちに、このいかだを大波が直撃して転覆させ、乗っていたものはすべて溺れた。夕方になるころ、食物も新鮮な水もない生存者たちは、危険な難破船にいることが耐えられず、岸までどうにか泳ごうとし、少なくとも一人の士官がこれで溺死した。夜を通して、生存者たちは、艦の側面の、危険に見舞われる可能性が低い部分に集まって、脱水症状で死ぬのを避けるために、海水や、尿や、酢を小さな樽から飲んだ、その樽は、船倉から流れてきたものだった。1月17日の朝、ついに嵐が収まり、フランスの小型ブリッグ船アロガントが到着した。このアロガントは、座礁する危険があるため、難破したドロワ・ド・ロムにはあまり近寄れなかったが、ボートを出して生存者を救おうとした。同じ日、アロガントに加え、カッター船エイギュイユも到着した。 ドロワ・ド・ロムの多くの生存者たちは、かなり弱っていたため、ボートに飛び乗るという危険を伴う行動を取れず、この試みでは多くのものが艦のへりから落ちて溺死した。それより多くの者たちは、小型ボートに乗るだけの空間がなく、1月17日に救出されたのは150人どまりだった 。翌朝、ボートが艦に戻ったところ、生存者は140人だけになっていて、ほぼ同数のものが夜のうちに死んでいた。艦から救出された最後の人々には、ラクロスやユンベールも含まれていた。ブレストに着いた救出者たちは、食物と衣類を与えられ、医師の治療を受けた。カンバーランドの捕虜たちはすべてイギリスに戻された、難破したドロワ・ド・ロムの生存者を救った見返りだった。
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