ドロワ・ド・ロムとイギリス艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:37 UTC 版)
「フランスのアイルランド遠征」の記事における「ドロワ・ド・ロムとイギリス艦」の解説
詳細は「1797年1月13日の海戦」を参照 1月13日までに、小型ブリッグ船ミュティーヌを除くすべての艦の帰港が判明した。ミュティーヌは強風でサンタ・クルス・デ・テネリフェまで流れ着き、7月に拿捕された。そしてバントリー湾のブーヴェの艦隊の1隻である、74門艦のドロワ・ド・ロム(英語版)は、共にシャノン川へと向かっていたが、艦隊が散り散りになって、他の艦とはぐれてしまった 。物資が底をつき、上陸がやはり難しかったため、ジャン=バティスト・レイモン・ド・ラクロス(英語版)艦長は、自分たちだけでフランスに戻ることを決めた。この艦は1300人も余計に乗員を積んでいたため、動きはのろかった。乗員のうち800人はジャン・ユンベール将軍(英語版)の兵だった。ドロワ・ド・ロムは、イギリスの小型私掠船カンバーランドと出くわしてこれを拿捕した時、さらに速度を落としていた。結果、最終的にラクロスは13日にはウェサン島にたどり着いた。この時、空には霧が立ち込めていた。この霧のおかげで、レヴォルシオンとフラテルニテが、追手から隠れながら無事に帰港できたのだった 。 1月13日の13時、薄暗がりの中から2隻の艦が現れて東へ向かった、ラクロスは無意味な交戦に乗員を巻き込むよりはと考えて向きを変えた。そこにとどまっていたこの2隻は、ペリュー艦長のフリゲート艦インディファティガブルと、ロバート・カーテュー・レイノルズ(英語版)艦長のアマゾンであることが明らかになった。2隻はブレスト沖の基地に物資を輸送して戻る途中だった 。ドロワ・ド・ロムが南西にかじを切ると、風が強くなり、海に三角波が立ち始めた。このためラクロスは、浸水や、トップマストを折って安定感を失うという危険を冒さずに、下げ甲板(英語版)の砲門を開くことが難しくなった。敵が困難な状況にあることを悟ったペリューは、自艦より大きなドロワ・ド・ロムに近寄って激しい砲撃を浴びせた。18時45分、アマゾンがラクロスの視界に入ってきて、2隻のフリゲート艦は共に、ドロワ・ド・ロムに連続して掃射砲を浴びせた。この戦闘は夜の間も続いたが、より運動量の多いイギリスの艦が、戦闘で受けたダメージの修理を、ドロワ・ド・ロムの射程外で行ったためしばしば中断した。 1月14日の午前4時20分、3隻の艦からは波がまたたくまに東の方向へ砕け散っているのが見えた。大きな砕け波を避けるため、インディファティガブルは北へ針路をとり、アマゾンは南へ向かった。一方で強風にあおられていたドロワ・ド・ロムは、何の戦術もたてられず、プロゼヴェ(英語版)の町の近くの砂州に直接乗り上げ、強い波によって艦はひっくり返った。アマゾンも難破したが、ドロワ・ド・ロムよりも危険を避けられる場所にいたため、どうにかまっすぐ立っていられた。唯一難破しなかったインディファティガブルは、ペンマーク・ロックスを一周して、外海に出た。レイノルズは乗員を安全に上陸させるためにいかだを作っていたが、ドロワ・ド・ロムのフランス人士官はボートを下すことができず、荒波の中で危険にさらされた状態であったため、岸にたどり着く試みがことごとく打ち砕かれ、何百人もの兵が溺死した。嵐が続くにつれ、甲板上の人員が失われ、船尾がこわれて開き、艦内が浸水して行った。1月15日の朝、ドロワ・ド・ロムに乗っていた、カンバーランドの捕虜たちが小さなボートで岸にたどり着いたが、しかし上陸後にするべきことはもう何もなかった。1月17日になってようやく海が静まり、小艦アロガンテが難破船に近づいて、290人の生存者を運び出した。
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