アイルランド遠征の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)
「1797年1月13日の海戦」の記事における「アイルランド遠征の失敗」の解説
1796年12月から1797年の1月初めにかけて、フランス艦隊は何度も繰り返しアイルランドへの上陸を試みた。遠征の前半の頃、ド・ガレとオッシュが乗ったフリゲート艦フラテルニテ (艦船)(英語版)は、艦隊から離れたため、ミズンヘッド(英語版)での他艦との合流ができなかった。指揮官を欠いた状態であるため、フランソワ・ジョゼフ・ブーヴェ(英語版)提督とエマニュエル・ド・グルーシー将軍は、バントリー湾(英語版)から上陸しようとしたが、天候が荒れ模様で、いかなるかたちの上陸も不可能だった。1週間以上もの間、嵐がやむのを待っていたフランス艦隊だったが、12月29日にブーヴェは侵入作戦を放棄した。しばらくの間、シャノン川河口から上陸しようと奮闘したものの、それもむなしく終わったため、散り散りになっていた艦隊に、ブレストへの帰還命令が出された。この作戦と、その後の撤退とで11隻の艦が難破し、または拿捕され、何千もの兵士や水兵が犠牲になった。 1月13日には、艦隊の生存者の多くが、艦が破損した状態でのろのろとフランスへ戻って行った。海上には、ジャン=バティスト・レイモン・ド・ラクロス(英語版)准将が指揮する戦列艦ドロワ・ド・ロム1隻が残っていた。この艦の乗員は1300人を超えており、うち700人から800人は、ジャン・ジョゼフ・アマブル・ユンベール(英語版)将軍を始めとする陸軍将校と兵士だった。バントリー湾からの撤退のさなかに、この艦は主力艦隊から分遣され、1隻だけでシャノン川河口に向かう途中だった 。荒天のため、上陸がやはり不可能であることを認めたラクロスは、この作戦が失敗であったと悟り、艦のフランスへの帰還を命じて、戻る途中にイギリスの私掠船カンバーランドを拿捕した。
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