戦後の英仏と戦闘の評価
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「ラ・ド・サンの海戦」の記事における「戦後の英仏と戦闘の評価」の解説
レリティエは降伏して剣をバターフィールドに差し出し、その剣は瀕死のフッドに届けられ、フッドは死ぬ前にそれを受け入れた。22時50分、「ジェイソン」が到着して、スターリングが「エルキュール」から捕虜をおろし、危険なラ・ド・サンの水路から、の大きな損害を受けた2隻戦列艦を脱出させた。戦闘直後のフランス艦の死者は正確に記録されてはいなかったが、いくつかの証言によれば、400人にも達すると言われ、その一方で、290人というより現実に即した数字が、存命のフランス人士官により証言された。イギリスの損失は3人の士官と19人の乗員が戦死、8人が行方不明になっていた。この8人は、フランス側の乗り込みを防ごうとして水中に投げ出され、溺死したものと思われた。イギリス側では他に60人が負傷した。幸運にも天気は穏やかで、そのため「マーズ」も「エルキュール」も、嵐を避けることもなく、「エルキュール」は細心の注意を払って4月27日にポーツマスに曳航され、現役で就航できるように修理された。この修理は総額12500ポンドかかったが、フランス軍艦「エルキュール」は最終的にイギリス軍艦「ヘルクール」として就役し、1810年まで現役だった。 歴史家のロバート・ガーディナーは、この海戦について、同等の力と大きさの2隻の戦列艦だけによる「古典的戦闘」で、他の艦など外部から干渉を受けなかったのは珍しいと述べ、エドワード・ペラム・ブレントン(英語版)は、1823年に、2隻の戦列艦の出会いはめったにない事態であり、この時の決断がうまく行ったのは、イギリス海軍の歴史に添える輝かしい名誉であると言っている。ブレントンによれば、名誉足りうるのは他に3つの海軍史の事件だと言っている。相対的な大きさと強さの軍艦同士による腕試しは、これが好勝負であったことを物語っている。それぞれの片舷の重さは「マーズ」が984ポンド、「エルキュール」は985ポンドだった。「エルキュール」は1876トンで「マーズ」より34トン重いだけである。また「エルキュール」の定員未満の乗員数は「マーズ」の乗員より46人も多かった 。1797年はスピットヘッドの反乱があったが、フッドは一時的に艦長を辞任していたが、乗員たちはその間も現役だった 。また2隻とも新しい艦で、「エルキュール」は処女航海の一日目で、「マーズ」はフランス革命戦争の初期に作られ、マーズ級戦列艦の名前の元となった。要約すると、歴史家のウィリアム・ジェームズ(英語版)が示すように、フッドの乗員たちが経験豊富であったこと、そして近くに他の複数のイギリス艦がいたことがマーズにわずかに利した。しかしジェームズはこうも言う「マーズとエルキュールの海戦は、それそのものの指揮が、双方の戦闘部隊に名誉が等しく分け与えられることを表している」 一部のイギリスの史書には、レリティエが戦闘後に負傷が元で亡くなったと書かれているが、これは正しくない。捕虜交換の後の帰国で、レリティエは敗戦のため軍法会議にかけられたが、無罪放免されて、海軍大臣のエティエンヌ・ユスターシュ・ブリュイ(英語版)から、抵抗の労をねぎらう称賛の手紙をもらっている。イギリスでは、バターフィールドがコマンダーに昇進し、フッドは死後賞賛され、ブリッドポートは公式文書の中で「フッド艦長の著名な武勇の輝ける光に、私の手柄など付け加えられない」(No Praise of mine can add one Ray of Brilliancy to the distinguished Valour of Captain Alexander Hood)と書いている。フッドの遺体はイギリスへ戻り、サマセットのバトリーの自宅の近くに埋葬され、その上に遺族によって記念碑が建てられた。
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