ヨアヒム・パイパー
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ヨアヒム・パイパー Joachim Peiper | |
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親衛隊少佐時代のパイパー(1943年) | |
渾名 | ヨッヘン |
生誕 | 1915年1月30日 ドイツ帝国 ベルリン |
死没 | 1976年7月13日 フランス オート=ソーヌ県 |
所属組織 | 武装親衛隊 |
軍歴 | 1934年 - 1945年 |
最終階級 | 親衛隊大佐 |
[1]ヨアヒム・パイパー(Joachim Peiper、1915年1月30日 - 1976年7月14日)は、ナチス・ドイツの武装親衛隊隊員。最終階級はSS大佐。「ヨッヘン(Jochen)」の愛称で呼ばれた[2]。
生い立ち
パイパーは、1915年ベルリンの軍人家庭に三人兄弟の三男として生まれた。 父ヴォルデマール(Waldemar)は陸軍士官でアフリカやトルコでの勤務経験があったが、病により1915年に大尉で除隊した。戦後はフライコールに参加するなど保守的な人物であった。 長兄ハンス=ハッソー(Hans-Hasso)は1931年に自殺を図るが意識不明のまま1942年に死亡した。次兄ホルスト(Horst)は空軍に短い勤務をした後にSSに入隊し、SS-TVの上級軍曹となりマウントハウゼン強制収容所に勤務した。1937年にSS士官となり、第3SS装甲師団の偵察大隊長になったが、1941年に同性愛疑惑をかけられてポーランドで自殺した。軍人だった父の影響から軍隊に憧れていたパイパーは、1934年、19歳で親衛隊特務部隊へ志願。入隊後、選抜されてSS士官学校(SS-Junkerschulen)へ入校し、卒業後はSS少尉に任官された。 パイパーは、SSが理想とする模範的なアーリア人種であったため、1938年には、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーの副官を務めた[1]。1939年6月にハイドリッヒの妻の友人のシグルズ・ヒンリヒンセン(Sigurd Hinrichsen)と結婚した。
第二次世界大戦
1939年9月、パイパーはヒムラーの副官としてポーランド戦線視察に随行した。戦後の尋問で、この時に残虐行為を目撃したと証言している。
1940年5月にライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(LSSAH)連隊の小隊長となる。1940年、西方電撃戦で一級鉄十字章を受章。同年6月、ヒムラーの副官に復職した。1941年6月に独ソ戦が開始されると、パイパーはヒムラーのゲットーや強制収容所、特別行動部隊への視察に随行している。10月、パイパーはLSSAHの第11中隊長へと異動した。1942年5月に LSSAH は、師団に格上げされ、パイパーも装甲擲弾兵第3大隊長となった。1943年にパイパーは親衛隊少佐に昇進した。2月の第三次ハリコフ攻防戦で騎士鉄十字章を受章する。
同年7月にはベニート・ムッソリーニ政権の崩壊したイタリアへ行き、北部においてイタリア軍の武装解除、平定を実施。この際にパイパーはあるユダヤ人を助けた。イスラエルに逃れた彼は戦後、パイパーの裁判で弁護をした。9月には指揮下である第14中隊の下士官2名がイタリア兵に連行され、オットー・ディンセ親衛隊中尉(SS-Obersturmführer Otto Dinse)に連れ戻すように命令したが、ボーヴェス村で待ち伏せされ、第3大隊総力で救出に向かう。しかしここでも待ち伏せを受けたパイパーは村に砲撃を行い、ディンセSS中尉と下士官2名を脱出させることができた。この砲撃によって民間人33名が死亡し(ボーヴェスの虐殺)、これが戦後の裁判でパイパーが死刑宣告を受ける第2の理由となる。12月にはSS第1戦車連隊長(ドイツ軍最年少の連隊長)に任じられる。
イタリアでの戦功により1944年1月27日に柏葉付騎士鉄十字章を受章し、同時に親衛隊中佐に昇進。6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦直後、SS第一装甲師団 LSSAH はカーン戦区に投入され、イギリス軍と激戦を繰り広げる。特に前線突破を目指す連合軍のグッドウッド作戦では112高地で巧みな防衛戦を敢行、80両もの戦車を撃破し、連合軍を敗退させる。その後、ファレーズ・ポケットで包囲されるも脱出に成功し、ドイツ本国で部隊を再編成する。
同年12月のアルデンヌ攻勢では、先鋒部隊として米軍陣地を突破することを期待され、特別編成のパイパー戦闘団(SS第1戦車連隊のIV号戦車、V号戦車パンター計約70両、第501SS重戦車大隊第1・第3中隊のVI号戦車ティーガーII20両の他、SS第2装甲擲弾兵連隊第3大隊、SS第1装甲工兵大隊第3中隊、SS第1装甲砲兵連隊第2大隊、空軍第84突撃高射砲大隊から成る戦闘団)を指揮し、アントウェルペン攻略を目指す。この時の戦功により1945年1月11日に柏葉剣付騎士鉄十字章を受章するが、結局パイパーは米軍の頑強な抵抗と燃料不足、友軍との連携不足により米軍に包囲され、重装備を廃棄して撤退する。(作戦行動中にパイパー指揮下の部隊が捕虜のアメリカ兵多数を殺害するマルメディ虐殺事件が起きた。これが戦後の裁判で死刑宣告を受ける第1の理由になる。)
1945年に入ると、SS第一装甲師団はオーストリアに迫るソ連軍に反撃すべくハンガリーに送られ、終戦まで同地からオーストリアにかけてソ連軍と戦う。終戦によりザンクト・ペルテンで師団ごとアメリカ軍に降伏し、武装解除を受ける。パイパーは5月22日にドイツ国内においてアメリカ軍に逮捕され、バイエルン州フライジングに設置された捕虜収容所に収容された。
戦後
1945年8月には、マルメディ虐殺事件がパイパー指揮下の部隊によって引き起こされたことが突き止められ、尋問を受けたのちバーデン=ヴュルテンベルク州シュヴェービッシュ・ハルの刑務所に収監された。1946年4月になると、他の国防軍、武装親衛隊の戦犯容疑者約300名と共にダッハウ強制収容所に移送された。
パイパーはマルメディ虐殺事件への関与の疑いで他の武装親衛隊員と共に5月から7月にかけて裁判行われ、絞首刑による死刑が宣告された。彼は銃殺を希望し、それが認められている。アメリカ陸軍の司法制度により判決結果は陸軍審査委員会により審査を受け、1948年にパイパーをはじめとするマルメディ虐殺事件の被告の多くは死刑から減刑され、ランツベルク刑務所で35年の懲役刑に服することとなった。パイパーは11年6ヶ月の刑期の多くを独居房で過ごし、1956年12月31日に仮釈放された。
パイパーは釈放後、HIAGの斡旋でポルシェ社に就職した。「有名人」であったパイパーの存在に労働組合やポルシェのイタリア法人が露骨な嫌悪感を示したが、オーナーであるフェリー・ポルシェはパイパーを庇いつづけた。しかし、パイパーの存在がアメリカ市場で非常に悪い印象を与えて販売実績にも影響を与えてきたことから解雇された。パイパーはHIAGの支援を受けてポルシェ社を相手に訴訟を起こし、解雇を有効とする代わりに半年分の給与額の補償金を勝ち取った。この裁判でパイパーは「戦犯」であることを否定し、マルメディ虐殺事件を「反ドイツのプロパガンダ」と主張している。その後、HIAGの紹介で元武装SS隊員が経営するフォルクスワーゲンディーラーに勤務した。1964年にイタリアのボーヴェス村に虐殺記念碑が建てられると、「共産主義パルチザンからの攻撃でやむを得ない行動だった」と代理人を通じてコメントした。1972年に退職すると、フランスの国家主義者ゴーティエの支援を受け、「Rainer Buschmann」の偽名でフランス・オート=ソーヌ県のトラヴェスに家族と隠遁し、そこで翻訳家として生活した。隣には戦友である元武装SS隊員ケッテルハットの一家が住んでいた。フランス政府はパイパーを「戦犯」と認識していなかったので、パイパーは次第に本名で生活するようになった。しかし、1974年6月、ブズールに犬小屋用の金網を購入に訪れたのが元レジスタンスメンバーPaul Cacheuxの店で、ドイツ語訛りが強い高身長のパイパーと名乗る客を不審がり、手元にあった「戦犯」リストに該当者がいたことからフランス共産党に報告された。調査の結果パイパーの正体が明らかになり、1976年6月21日に「戦争犯罪人」と彼を糾弾するチラシが近隣に配布され、翌日のフランス共産党機関紙にも詳しく報道されパイパーの追放運動を展開した。殺到したマスコミに、パイパーは「いわれもない罪に問われた」と戦争犯罪を否定し、脅迫を受けて妻子はドイツに返したと答えている。7月14日に殺害する予告がなされた。フランス政府から7月14日のパリ祭当日までに出国を命じられた。その前日の7月13日夜、自宅に火炎瓶が投げ込まれ全焼した。パイパーは銃を持った焼死となって発見された。死因は煙吸引による窒息死と判定された。実行犯は特定されなかったものの、フランス共産党活動家の犯行が疑われた。[要出典] 遺体は父母兄弟や妻が葬られているバイエルンの墓地に埋葬された。 彼が死亡した家の所有権は、彼の息子のハインリヒにあり、現在も[いつ?]事件当時のまま放置されている。[要出典]
脚注
- ^ a b 高貫布士『図解ドイツ装甲師団』、並木書房、1995年、ISBN 4-89063-062-7、p.126。
- ^ ヴィル・フェイ『SS戦車隊・上』梅本弘(訳)、大日本絵画、1994年、ISBN 4-499-22627-9、p.31。
ヨアヒム・パイパー
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第1SS装甲師団隷下にあるパイパー戦闘団の指揮官。親衛隊大佐。
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