リトルビッグホーンでの戦死
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「ジョージ・アームストロング・カスター」の記事における「リトルビッグホーンでの戦死」の解説
1876年6月25日、カスターは自ら700名の部隊を率いてリトルビッグホーン川(インディアン側の呼び名はグリージー・グラス川)をさかのぼって、対白人政策と宗教行事「サン・ダンス」のために集結していた、ダコタ族とラコタ族のスー族、シャイアン族、アラパホ族のインディアン同盟部族からなる総勢約1500名のティピー野営会議場が存在するとの報告を、インディアン斥候から受けた。カスターは騎兵隊を三個分隊に分けて攻撃する事を計画、マーカス・リノ隊、フレデリック・ベンティーン隊、そしてカスターの本隊に分割した。ベンティーン隊は敵の退却を阻止する為に南と西に向かい、リノ隊が集会所の南側から攻撃を仕掛ける間にカスター隊が迂回して挟撃するという作戦だった。 一斉攻撃をはやるカスターに対し、副官マーカス・リノは「慎重にいきましょう」と助言し、ジョン・ギボン大佐は「カスター君、あんまり欲張るもんじゃないよ、インディアンはなにしろたくさんいるからね」と忠告した。カスターが最も信頼していたインディアン斥候のブラッディ・ナイフ(アリカラ族(英語版))も、「敵方としてスー族の数があまりにも多すぎる」と何度も何度も忠告していた。しかし勝ちを焦ったカスターはこれらの意見を無視し、隊を3つに分散させての迂回攻撃を開始した。 リトルビッグホーンの戦いが始まると各部隊は予定通りの進軍を開始したが、リノ隊は直ぐにシャイアンの戦士たちに取り囲まれて身動きが取れなくなった。更にダコタ騎兵の突撃で無防備な左側面を強襲されて完全に敗走に追い込まれた。リノ隊の兵士は命からがら近くの森林地帯に逃げ込んだが、そこも直ぐにインディアンの追撃を受けて更に逃げ延びなければならなくなった。伝統的な騎兵挟撃「槌と金床」の金床が崩れ、当初の作戦は瓦解した事が明らかだった。しかしカスターは単独で攻撃を継続するという勇気を通り越して無謀に近い攻撃を遂行、本陣の大軍に取り囲まれた。乱戦の中で指揮を執っていたカスターは銃弾に貫かれ戦死、他の隊員も軒並み殺害され本隊は全滅した。カスターは死の間際に「万歳!野郎ども、奴らを片づけて本隊に戻ろうぜ!」と叫んだと言われている。両軍戦力について、インディアンの数については諸説あるが1800人を超えたという点では一致しており、対するカスター隊は208名だった。カスターを殺した戦士が誰なのかはインディアンの間でも論争があり、複数の戦士が名乗りを上げている。 インディアン達は、すでに斥候の報告によって、カスター隊の接近を把握していた。しかし、彼らの数に比べ、カスターたちの数があまりに貧弱なので、他に隠れている部隊があるのではないかと考え、カスターとは正反対に慎重な行動を取った。カスターに対し、彼らインディアンは積もりつもった怒りを爆発させた。特にシャイアン族は、ウォシタ川の戦いをよく覚えていたのである。カスターの長髪は、とてもよく目立ち標的となった。また、クレイジー・ホースも、彼の顔をよく見知っていた。対してカスターは彼の顔を知らなかった。 戦いから2日後にテリー准将の援軍が到着して無残に散乱した騎兵隊の遺体を回収、指揮官カスターの遺体には胸と頭に銃創があった。陸軍は戦場に記念墓地を建設してカスターを埋葬、1877年10月10日に母校である陸軍士官学校と陸軍の主催で正式に軍葬が執り行われた。 カスターには、軍規を平気で破るなど向こう見ずなところがあり、その傲慢な性格が災いして全滅の憂き目を見た。彼の書き残したメモには、「(弾薬の)包みを持ってきてくれ」とあった。カスターはリトルビッグホーンの戦いでは、輸送馬車に2万4000発の弾薬を置いたまま、兵士達には124発ずつしか弾薬を装備させていなかった。 カスター隊の全滅は白人社会に衝撃を与え、「ボズマン・タイムズ」紙は7月3日に第一報を伝えている。7月4日までにはニューヨークにこの事件が電報で届き、7月6日には「ビスマルク・トリビューン」紙が「カスター“虐殺”の第一報」の見出しでこれを伝えている。
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