西部のインディアン戦争
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「西部開拓時代」の記事における「西部のインディアン戦争」の解説
詳細は「赤い河戦争(英語版)」を参照 アンドリュー・ジャクソン大統領の「インディアン強制移住法」によって、「開拓者」の邪魔になるインディアンたちは、政府の指定する「すべての権利が保留された土地」である保留地 (Reservation) へ、強制移住させられることとなった。これを拒否するインディアン部族は絶滅させる、という民族浄化政策だった。西部にこの政策が強要されるようになると、武勇で知られた平原のインディアンたちは、果敢にこの理不尽な要求に立ち向かっていった。しかしそれは部族それぞれの問題として捉えられ、すべての部族がまとまった形での抵抗戦はついになかった。こうしてインディアンたちの結束は徐々に切り崩されていった。 アパッチ戦争(1862年)とナバホ戦争(英語版)(1863年)で、キット・カーソン大佐は保留地周辺でアパッチ族と交戦した。合衆国とアパッチとの紛争は、ジェロニモが合衆国に降伏する1886年まで続いた。キット・カーソンはナバホ戦争で焦土作戦を用いて、農場と家を燃やし、家畜は盗むか殺すかした。ナバホと長年の間対立していたインディアン部族、主にユテ族も彼の作戦を支援した。後に彼は第一次アドビ・ウォールズの戦い(英語版)でカイオワ族、コマンチ族、シャイアン族の連合軍と戦い、なんとかインディアンの村と冬を越す備蓄を破壊した。1874年6月27日、バット・マスターソンとバッファローの狩人の小さな集団は、はるかに大きいインディアンの戦士団と第二次アドビ・ウォールズの戦い(英語版)で交戦した。 1862年、保留地で食糧補給を断たれ、飢餓状況となったダコタ・スー族がミネソタでダコタ戦争(ミネソタ大暴動とも)を起こし、白人開拓者を多数殺害したとして、裁判なしに死刑判決を下されたダコタ・スー族がクリスマスの翌日に死刑執行された。38人のインディアンが、この刑のために特別に誂えた絞首台で一斉に絞首刑にされ、死刑の同時執行ではアメリカでも最大数の絞首記録となった。 1866年、ダコタとラコタのスー族とシャイアン族は、パウダー川と「ボズマン街道」の領有権を巡ってアメリカ陸軍と戦い、インディアン戦争の間で合衆国に対して最も成功した戦いとなった(レッド・クラウド戦争)。1868年の第二次ララミー砦条約(英語版)によって、合衆国はダコタとラコタに、軍の駐留や監視、白人の立ち入り、道路建設がまったく許されないという、「偉大なるスーの国」 (Great Sioux Nation) を条約で確約した。この保留地は「ブラックヒルズ」全体を含んでいた。 1872年、カリフォルニアとオレゴンのインディアン部族モードック族(英語版)の酋長、キャプテン・ジャック(英語版) (Kintpuash, Captain Jack) は、アメリカ政府の部族の保留地への強制移住命令を拒否し、モードック戦争を引き起こした。53名のモードックの戦士と共に、キャプテン・ジャックは1000人の合衆国陸軍を七ヶ月間食い止め、さらにエドワード・キャンビー准将を殺害した。 第二次ララミー砦条約(英語版)の締結後に「偉大なるスーの国」で金鉱が発見され、なし崩しに侵略されていく状況に抵抗し、1876年にシッティング・ブルやクレイジー・ホースが属するラコタ・スー族がブラックヒルズ戦争を起こした。一連の有名な戦闘のひとつ、リトルビッグホーンの戦いでは、スー族とシャイアン族、アラパホー族の連合軍が、ジョージ・アームストロング・カスター率いる合衆国第7騎兵隊を破った。
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