西部での建設推進と日本鉄道
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「中山道幹線」の記事における「西部での建設推進と日本鉄道」の解説
鉄道局長であった井上勝は鉄道建設の停滞を強く訴え、まだ西南戦争の続いていた1877年(明治10年)2月1日には京都 - 大津(馬場、後の膳所)間の着工が認められた。西南戦争が終結し、1878年(明治11年)4月に1000万円分の国債を発行して、このうち鉄道建設費に213万9914円を割り当て、京都 - 大津間と米原 - 敦賀間をいよいよ着工することになった。この段階ではまだ東西連絡幹線の全区間に着工することはできず、とりあえず本州横断路線を建設することになったのである。 京都 - 馬場(後の膳所)間は1880年(明治13年)7月15日に全区間が開通し、それまでの建設工事と異なり、お雇い外国人の助けを借りることなく、養成に努めていた日本人技術者の手だけで初めて開通する鉄道路線となり、当初の見積もりに比べて約2割の工費節約も実現した。一方、米原 - 敦賀間については、ボイルの調査では塩津を経由することになっていたが37パーミルの勾配が必要であり、柳ヶ瀬トンネルを建設する経路であれば25パーミルに抑えられることから、経路変更をすることになった。また井上勝鉄道局長は将来的に中山道幹線を建設する際には、米原からではなく長浜から直接関ケ原に出る経路が有利ではないかとの考えがあり、調査の結果この経路を推進することにして、米原 - 長浜間は後回しにすることになった。こうして柳ヶ瀬トンネル経由で長浜 - 敦賀間建設が進められ、1884年(明治17年)4月16日に全通した。 さらに、井上鉄道局長は1882年(明治15年)2月に、長浜 - 関ケ原 - 大垣間の鉄道建設を提案する建言書を提出し、琵琶湖の湖上連絡を介して京阪神地方と北陸地方を結ぶ路線にこの区間を加えることで、舟艇による連絡で四日市を介して東海方面とも連絡できると主張した。この区間についても建設する方針となり、1884年(明治17年)5月25日に大垣までが全通した。 一方東部では、1880年(明治13年)2月から東京 - 高崎間の測量が開始され、工事着手の許可も受けた。しかし、実際の建設費の手配が行われず工事に着工できなかった。資材の調達および技術者の転用の問題があるため、早期に着工できる見込みがないのであれば工事許可を取り消して欲しいとの鉄道局長からの要請により、1880年(明治13年)11月9日に工事着手の許可が取り消された。これは当時の政府の財政事情から、東西からの同時着工が困難な情勢であったことを示している。 この頃、華族を中心に資産を出しあって民間の鉄道会社を設立する動きがあり、政府が東京 - 高崎間の鉄道着工を断念したことを好機として、日本で最初の民営鉄道である日本鉄道の創立を出願した。1881年(明治14年)に正式に許可を受けたが、当時鉄道の建設能力は民間には無かったことから、最初の着工区間となる東京 - 高崎間の鉄道は政府の鉄道局に工事が全面委託されることになった。東京の繁華な市街地を横断する工事は難航が予想されたことから、官設鉄道の新橋駅(後の汐留駅)を起点とすることを先送りし、土地を用意できた上野駅を起点として1882年(明治15年)9月に起工された。1884年(明治17年)5月1日に上野から高崎までの区間が全通した。
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