ボイルの調査
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政府は1874年(明治7年)に、当時建築師長を務めていたお雇い外国人のリチャード・ボイルに対して、中山道鉄道の調査を行うように命じた。これを受けてボイルは、2回に渡って中山道の調査を行った。1回目は1874年(明治7年)5月に神戸を出発し、京都から高崎まで中山道経由で調査した後、新潟まで往復して東京へ至る2か月半に渡るもので、鉄道少手の長江種同が同行し、また建築師ウィリアム・ゴールウェーと助役のクロード・キンダー(英語版)は分かれて三国峠の調査を実施している。続いて翌1875年(明治8年)9月に逆の経路で、横浜を出発し高崎を経由して11月に神戸に到着した。同行者は技術一等見習の鶉尾謹親、会計掛の上田勝造、ポルトガル人の書記役F.C.V.リベイロであった。 ボイルが1876年(明治9年)9月に提出した上申書では、東西連絡の幹線鉄道を中山道経由とすることを推奨した。当時、東海道は全国でも最良と言ってよい交通事情であったのに対して、中山道は道路事情が悪く、ここに鉄道を建設すれば広大な内陸部を開発でき、また東西両京を結ぶだけでなく、支線を加えることで南北の両海岸を結ぶこともできるとした。 ボイルの提案する経路は、東京の新橋駅(後の汐留駅)を出発して北上し、市街地を通り抜けて王子、赤羽、蕨を経て大宮へ至る。将来東北方面への線路を建設する際には、大宮を分岐点にすれば便利であると指摘している。大宮からは熊谷を経て高崎に至る。高崎はこの地方では大きな都市であるとともに、前橋方面で生産される絹の輸送上も重要であることから、まずは東京 - 高崎間を着工するべきであると提言した。平坦な区間であり建設は容易であるとともに、輸送需要が大きい割に運行費用は安いものと見込んでいた。東京から高崎までは66マイル(約105.6キロメートル)である。 高崎からは中山道の北側を通り横川を経て、ここで中山道から分かれて入山川に沿って遡り、入山峠を越えて長野県に入る。横川から入山峠に至る区間は、中山道幹線で最急勾配が見込まれ、もっとも厳しい区間では20分の1(50パーミル)勾配を採用し、最長1マイル(約1.6キロメートル)のトンネルを必要とすることになっていた。長野県内に入ると、泥川、湯川に沿って西へ向かい、岩村田(現在の佐久市)、塩名田(現在の佐久市塩名田)を通り、千曲川(信濃川)に沿って小諸を経て田中駅へと至る。この付近で、長岡経由で新潟へ向かう線路を分岐させる。 中山道幹線の本線は、ここで南西に向けて千曲川と依田川を渡り、内村川左岸に沿って遡って鹿教湯を通り、保福寺峠へ至る。峠の部分では、中山道幹線最長となる全長約1.5マイル(約2.4キロメートル)のトンネルが必要であるが、前後の取付部分の勾配は入山峠に比べれば緩く、その距離も短いと計画していた。最高点の標高は約3,500フィート(約1,050メートル)としていた。峠の部分の線路の選び方には2通りが考えられるが、どちらが優れているかはより詳細な測量を実施しなければ決定できないとしていた。 以降、保福寺川に沿って下り、七嵐(現在の松本市七嵐)付近で南に曲がり、稲倉峠を約0.75マイル(約1.2キロメートル)のトンネルで抜けて降下し、松本へと至る。高崎と松本の間は山岳地帯で建設にも運行にも多額の費用が見込まれるが、交通の不便な内陸部を貫通して連絡する役割のためにはやむを得ないとした。高崎から松本までは80マイル(約128キロメートル)、東京からは146マイル(約233.6キロメートル)である。なお、中山道は入山峠から佐久平を通り、和田峠を越えて諏訪盆地に入り、塩尻峠を越えて塩尻から木曽谷に入るのに対して、古来の東山道が碓氷峠から小諸を通り、保福寺峠を越えて松本から南下し、善知鳥峠を越えて伊那谷へ入るので、この区間では提案されている経路は、部分的に中山道ではなく東山道に沿っている。 松本からは南下し、中山道の洗馬宿から奈良井川の右岸を遡り、途中で左岸に渡り、鳥居峠に長いトンネルを掘って木曽川の谷に入る。鳥居峠のトンネルは全長約1マイル(約1.6キロメートル)で、松本 - 岐阜間ではもっとも長い。木曽川左岸を下り藪原と宮ノ越の間で右岸に渡り、以降福島、上松、須原、三留野の各宿場町の木曽川対岸を通る。田立を通り、岐阜県に入って坂下を通って、この下流で木曽川を再び左岸に渡る。ここから木曽川から離れ始め、中津川、大井を経て、土岐川を何度かわたって高山町(土岐市駅に対して土岐川の対岸付近)に至る。そのまま土岐川左岸を進み、永保寺(虎渓山)の対岸あたりで右岸に渡り、ここから土岐川を離れて木曽川の支流可児川の流域へ進み、その右岸に沿って下って可児川河口付近で木曽川の右岸へ渡る。ここから西へ進んで加納(岐阜)へと至る。松本から加納までの距離は125マイル(約200キロメートル)で、東京から271マイル(約433.6キロメートル)である。ここから先の区間は、敦賀-京都間の調査の際に合わせて調査済みであるとして、ボイルのこの時点での報告書には含まれなかった。 またボイルは別途、田中付近で分岐して新潟に至る経路の調査結果も報告した。三国峠経由の路線も調査したが、非常に厳しい山岳地帯を避けて長野を経由するべきであるとした。田中で中山道幹線から分岐し、千曲川の右岸に沿って下り、上田、屋代、松代へと至る。以降、さらに千曲川に沿って下るが、必要に応じて左岸と右岸を行き来する。新潟県に入り最終的に左岸側をつたって魚野川との合流点の下流側において信濃川(千曲川から名前が変わる)を渡り、以降は右岸を下る。新潟の平野に入ると特に工事は難しいところはなく、水田地帯に築堤をして通過し、新潟に至る。分岐点から新潟までの延長は150マイル(約240キロメートル)で、中山道幹線に比べれば重要度は劣るものの、新潟を太平洋側に連絡する必要がある時には最良の経路であるとした。 一方、同時期の調査により、京都 - 敦賀間および米原から加納(岐阜)を経て熱田に至る路線の測量を行い、1876年(明治9年)4月にやはりボイルが報告書を提出した。京都から敦賀の経路は、京都駅から南へ出発して大きく迂回して大津へ達する。そこから琵琶湖東岸の平坦な土地を、瀬田川や野洲川を渡って進み、米原へと至る。米原から北上し、長浜を経て余呉湖と琵琶湖の間の山地を通り抜けて塩津へ至る。塩津からは山岳地帯を屈曲しながら急勾配で登り、沓掛から国道8号に近い経路をたどって福井県側へ抜け、敦賀へと至る。合計して75.25マイル(約120.4キロメートル)である。 米原から熱田までは、米原駅から分岐して東へ向かい、醒ヶ井、柏原、関ケ原、垂井を経由して大垣へ至る。ここからはほぼまっすぐな線路で加納(岐阜)に達し、南へ向きを変えて木曽川を渡り、名古屋駅を設けて、その先の海に近いところまで線路を伸ばして終点とする。米原から熱田までの線路は67マイル51チェーン(約108.2キロメートル)とされた。 しかし、この年には神風連の乱、萩の乱、秋月の乱と騒乱が相次ぎ、翌年には西南戦争も発生して、多額の軍事費の支出を余儀なくされ、鉄道の建設計画は大きく遅延することになった。
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