ボイルの調査とは? わかりやすく解説

ボイルの調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 00:11 UTC 版)

中山道幹線」の記事における「ボイルの調査」の解説

政府1874年明治7年)に、当時建築師長務めていたお雇い外国人リチャード・ボイルに対して中山道鉄道調査を行うように命じた。これを受けてボイルは、2回に渡って中山道調査行った1回目1874年明治7年5月神戸出発し京都から高崎まで中山道経由調査した後、新潟まで往復して東京へ至る2か月半に渡るもので、鉄道少手の長江種同が同行し、また建築師ウィリアム・ゴールウェーと助役のクロード・キンダー(英語版)は分かれて三国峠調査実施している。続いて1875年明治8年9月に逆の経路で、横浜出発し高崎経由して11月神戸到着した同行者技術一等見習鶉尾謹親、会計の上勝造ポルトガル人書記役F.C.V.リベイロであったボイル1876年明治9年9月提出した上申書では、東西連絡幹線鉄道中山道経由とすることを推奨した当時東海道全国でも最良と言ってよい交通事情であったに対して中山道道路事情悪く、ここに鉄道建設すれば広大な内陸部開発でき、また東西両京を結ぶだけでなく、支線加えることで南北の両海岸を結ぶこともできるとした。 ボイル提案する経路は、東京新橋駅(後の汐留駅)を出発して北上し市街地通り抜けて王子赤羽経て大宮へ至る。将来東北方面への線路建設する際には、大宮分岐点にすれば便利であると指摘している。大宮からは熊谷経て高崎に至る。高崎はこの地方では大きな都市であるとともに前橋方面生産される絹の輸送上も重要であることから、まずは東京 - 高崎間を着工するべきであると提言した平坦な区間であり建設は容易であるとともに輸送需要大きい割に運行費用は安いものと見込んでいた。東京から高崎までは66マイル(約105.6キロメートル)である。 高崎からは中山道北側通り横川経て、ここで中山道から分かれて入山川沿って遡り入山峠越えて長野県に入る。横川から入山峠に至る区間は、中山道幹線で最急勾配見込まれ、もっとも厳し区間では20分の150パーミル勾配採用し最長1マイル(約1.6キロメートル)のトンネルを必要とすることになっていた。長野県内に入ると、泥川湯川沿って西へ向かい岩村田現在の佐久市)、塩名田現在の佐久市塩名田)を通り千曲川信濃川)に沿って小諸経て田中駅へと至る。この付近で、長岡経由新潟へ向かう線路分岐させる。 中山道幹線本線は、ここで南西向けて千曲川依田川渡り内村川左岸沿って遡って鹿教湯を通り保福寺峠へ至る。峠の部分では、中山道幹線最長となる全長1.5マイル(約2.4キロメートル)のトンネルが必要であるが、前後取付部分勾配入山峠比べれば緩く、その距離も短いと計画していた。最高点標高は約3,500フィート(約1,050メートル)としていた。峠の部分線路選び方には2通り考えられるが、どちらが優れているかはより詳細測量実施しなければ決定できないとしていた。 以降保福寺川沿って下り七嵐現在の松本市七嵐付近で南に曲がり稲倉峠を約0.75マイル(約1.2キロメートル)のトンネル抜けて降下し松本へと至る。高崎松本の間は山岳地帯建設にも運行にも多額の費用見込まれるが、交通不便な内陸部貫通して連絡する役割のためにはやむを得ないとした。高崎から松本までは80マイル(約128キロメートル)、東京から146マイル(約233.6キロメートル)である。なお、中山道入山峠から佐久平通り和田峠越えて諏訪盆地入り塩尻峠越えて塩尻から木曽谷に入るのに対して古来東山道碓氷峠から小諸通り保福寺峠越えて松本から南下し善知鳥峠越えて伊那谷へ入るので、この区間では提案されている経路は、部分的に中山道ではなく東山道沿っている。 松本からは南下し中山道洗馬宿から奈良井川右岸遡り途中で左岸渡り鳥居峠長いトンネル掘って木曽川の谷に入る。鳥居峠トンネル全長約1マイル(約1.6キロメートル)で、松本 - 岐阜間ではもっとも長い木曽川左岸下り藪原宮ノ越の間で右岸渡り以降福島上松須原、三留野の各宿場町木曽川対岸を通る。田立通り岐阜県入って坂下通って、この下流木曽川を再び左岸に渡る。ここから木曽川から離れ始め中津川大井経て土岐川何度わたって高山町土岐市駅に対して土岐川対岸付近)に至る。そのまま土岐川左岸進み永保寺虎渓山)の対岸あたりで右岸渡りここから土岐川離れて木曽川支流可児川流域進み、その右岸沿って下って可児川河口付近木曽川右岸へ渡る。ここから西へ進んで加納岐阜)へと至る。松本から加納までの距離は125マイル(約200キロメートル)で、東京から271マイル(約433.6キロメートル)である。ここから先の区間は、敦賀-京都間の調査の際に合わせて調査済みであるとして、ボイルのこの時点での報告書には含まれなかった。 またボイル別途田中付近分岐して新潟に至る経路調査結果報告した三国峠経由路線調査したが、非常に厳しい山地帯避けて長野経由するべきであるとした。田中中山道幹線から分岐し千曲川右岸沿って下り上田屋代松代へと至る。以降、さらに千曲川沿って下るが、必要に応じて左岸右岸行き来する新潟県入り最終的に左岸側つたって魚野川との合流点下流側において信濃川千曲川から名前が変わる)を渡り以降右岸を下る。新潟平野に入ると特に工事難しいところはなく、水田地帯築堤をして通過し新潟に至る。分岐点から新潟までの延長150マイル(約240キロメートル)で、中山道幹線比べれば重要度は劣るものの、新潟太平洋側連絡する必要がある時には最良経路であるとした。 一方同時期の調査により、京都 - 敦賀間および米原から加納岐阜)を経て熱田に至る路線測量行い1876年明治9年4月にやはりボイル報告書提出した京都から敦賀経路は、京都駅から南へ出発して大きく迂回して大津達する。そこから琵琶湖東岸平坦な土地を、瀬田川野洲川渡って進み米原へと至る。米原から北上し長浜経て余呉湖琵琶湖間の山地を通り抜けて塩津へ至る。塩津からは山岳地帯屈曲しながら急勾配登り沓掛から国道8号に近い経路たどって福井県側へ抜け敦賀へと至る。合計して75.25マイル(約120.4キロメートル)である。 米原から熱田までは、米原駅から分岐して東へ向かい醒ヶ井柏原関ケ原垂井経由して大垣へ至る。ここからはほぼまっすぐな線路加納岐阜)に達し南へ向き変えて木曽川渡り名古屋駅設けてその先の海に近いところまで線路伸ばして終点とする。米原から熱田までの線路67マイル51チェーン(約108.2キロメートル)とされた。 しかし、この年には神風連の乱萩の乱秋月の乱騒乱が相次ぎ翌年には西南戦争発生して多額軍事費支出余儀なくされ、鉄道の建設計画大きく遅延することになった

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