ボイル家 (1682年 - 1758年)
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「チジック・ハウス」の記事における「ボイル家 (1682年 - 1758年)」の解説
チジック・ハウスはジャコビアン様式のまま、ロンドン中心部にあるボイル家の邸宅であるバーリントンハウスの別宅として使われていた。1725年の火災の後、第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイルは家長となり、チジック・ハウスの西側に新しい邸宅 (ヴィラ) を建てることにした。 1719年のイタリア旅行で、バーリントンはパッラーディオ建築へ大きな情熱を持つようになった。彼自身はローマ建築の遺跡を詳細に視察したり、イタリアで訪問した建物を自ら細かくスケッチしたりしていたわけではなく、古典古代の伝統の解釈者としてのアンドレーア・パッラーディオ (1508年 - 1580年) やヴィンチェンツォ・スカモッツィ (1548年 - 1616年) を信用していた。彼の発想の別の源泉は、収集していたパッラーディオやイニゴー・ジョーンズ (1573年 - 1652年) 、イニゴーの弟子のジョン・ウェッブ (John Webb、1611年 - 1672年) (英語版) による図面であった。ハワード・コルビン (Howard Colvin、1919年 - 2007年) によると、「バーリントンの使命は、ウィトルウィウス が記したように、あるいは残存する遺跡が例示しているように、あるいはパッラーディオ、スカモッツィ、ジョーンズによって実践されているように、「オーガスタン時代のイングランド」 (Augustan England) においてローマ建築の規範を回復することであった。」 バーリントン自身優れたアマチュア建築家かつ(ホレス・ウォルポール (1717年 - 1797年) の言によると) 「芸術のアポローン」であり、庭園を設計をする上で主導的な役割を果たしたウィリアム・ケントの助けを借りて、邸宅を設計した。バーリントンの美術コレクションは「欧州最高の絵画」を含むものと考えられており、さらに1714年の最初の欧州へのグランドツアー の際に購入したものを含む選り抜きの家具を所有していた。こうしたものを収容するために、十分な敷地を取って邸宅 (ヴィラ) を建築した。工事は1726年から1729年にかけて行われた。 1753年のバーリントンの死後は、妻のドロシー (1699年 - 1758年) と1748年にウィリアム・キャヴェンディッシュ (1720年 - 1764年、後の第4代デヴォンシャー公爵) と結婚していた娘のシャーロット (1731年 - 1754年) が家を継承した。1754年12月にシャーロットが亡くなり、1758年8月にはバーリントン伯爵夫人ドロシーが亡くなった。
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