ボイルの政敵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 17:10 UTC 版)
「リチャード・ボイル (初代コーク伯爵)」の記事における「ボイルの政敵」の解説
ボイルの最も有名な政敵はチャールズ1世の側近のストラフォード伯爵トマス・ウェントワースであった。ストラフォードは1633年にアイルランド総督(Lord Deputy)としてアイルランドに赴任し、最初は上手くボイルから彼の特権と収入をはく奪した。ボイルはストラフォードのアイルランドでの計画に対して、辛抱強く逆境の中で力を蓄え、このボイルによる効果的な政治的策略がストラフォード失脚の重要な要因となった。ストラフォードがボイルに対して行った屈辱的な行為の典型例として、ボイルの妻の墓をダブリンの聖パトリック大聖堂から移動させたことが挙げられる。ボイルはまた、ヨール大学(Youghal College)の資金の不正流用疑惑で、アイルランドの星室庁とも言えるコート・オブ・キャッスル・チャンバー (Court of Castle Chamber) (英語版) に起訴された。 ストラフォードと同じくチャールズ1世の側近である大主教ウィリアム・ロードは、ストラフォードのボイルに対する攻撃に関して嬉々として次のように書いている。「時間内に与えられるのであれば、嘔吐物より良い下剤はない。そういう意味で、あなたはコーク伯爵の管理に関して早くからとても賢明な選択をしていた。私はそれが彼をよくすることを願っている。」 ロードとストラフォードはチャールズ1世と、その時代を生きた他の多くの人達と同じ運命を分かち合い、ボイルに対抗して陰謀を企てた。しかしながら、ボイルの全ての肝心な節目において見せる説得力のある政治的に適切な対応によって、早い終焉を迎えた。ロードの深刻な誤算は、1641年のアイルランド反乱(英語版)を予測できなかったことであった。 ストラフォードの裁判でボイルは重要な証人だったが、公判には直接は参加しなかった。当然ながらボイルはストラフォードに対する糾弾を全面的に支援し、彼の死刑を心から願っていた。 ボイルは子供達からの従順さを期待したが、心から優しい父親として、彼の政敵からの反抗とは違い、子供達からの反抗に関しては寛容だった。「私のやんちゃ娘 (my unruly daughter) 」メアリーはクランブラッシル伯爵 (James Hamilton, 1st Earl of Clanbrassil、1618年-1659年) (英語版) との結婚を拒絶し、父の承諾なしにウォリック伯チャールズ・リッチ(英語版)と結婚して父を怒らせたが、両者はすぐに和解して父は莫大な持参金を娘に持たせた。 ボイルは1641年のアイルランド反乱で彼の土地を追われたまま、1643年に亡くなった。しかしながら、彼の息子たちは反乱の抑圧後、家族の不動産を取り戻した。
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