西部のブラック・セミノール
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「ブラック・セミノール」の記事における「西部のブラック・セミノール」の解説
1838年の後、500名のブラック・セミノールは、セミノールインディアンと共に現在のオクラホマ州のインディアン準州へ移住した。軍による自由の約束にもかかわらず、西に向かうブラック・セミノールは奴隷の襲撃者たちに脅迫された。その中には奴隷制に賛成しているクリーク・インディアンとかつてのセミノールの同盟者も含まれていて、彼らのマルーンに対する忠誠は戦争の後減退した。連邦軍の司令官たちはブラック・セミノールを保護しようと努めたが、1848年、合衆国司法長官は奴隷制賛成のロビイストに屈服し、マルーンの武装解除を軍に命じた。 奴隷になる可能性に直面して、1849年、マルーンの指導者ジョン・ホーストと約100名のブラック・セミノールは、インディアン準州から、奴隷制が非合法だったメキシコへの集団逃亡を成し遂げた。1850年7月、この黒人の脱走者たちは自由へ横断した。彼らは、この遠征を率いたインディアン酋長コアコチーの下の伝統主義的セミノールの派閥の助力を得た。メキシコ政府はこのセミノールの同盟者たちを、国境の辺境地の警護として歓迎した。 その後20年間、ブラック・セミノールはメキシコの民兵として務め、"los mascogos"と呼ばれるようになった。テキサスからの襲撃者はコミュニティを脅迫し続けたが、メキシコ軍からの武器と応援もあり、彼らは自衛することができた。 この時代を通じて、数百名のブラック・セミノールはオクラホマのインディアン準州に、セミノールの同盟者として残った。合衆国の奴隷制が終焉して、これらのマルーンたちは「セミノール自由人」と呼ばれるようになった。彼らは(彼らの子孫と同様に)、オクラホマ州のウェウォカ(w:Wewoka, Oklahoma)周辺に居住し、そのコミュニティはジョン・ホースが1849年に設立した黒人開拓地で、現在はセミノール・ネーション・オブ・オクラホマの本国となっている。 1870年、アメリカ軍はメキシコに拠点を持つブラックセミノールに、合衆国に戻って軍の偵察として務めるよう招いた。「セミノール・ニグロ・インディアン・スカウツ(The Seminole Negro Indian Scouts)」(という名前にもかかわらず黒人部隊だったが)は、1870年代のテキサスのインディアン戦争において重要な役割を演じた。偵察隊はその追跡能力と並外れた持久力で有名になった。彼らのうちの4名は、栄誉章を受け取った。彼らは、命令する白人司令官と、彼らと緊密に連携したバッファロー・ソルジャーとして知られるすべて黒人の部隊の、最前線の偵察隊として務めた。テキサスのインディアン戦争が終わった後、彼らはテキサス州ブラケットビル(w:Brackettville, Texas)のクラーク砦に駐留し、1914年に軍が解散するまで残った。彼らの家族はブラケットビル周辺に居住し、そこにはテキサスを拠点としたブラックセミノールの教会と墓地が残っている。 ナシメントとコアウイラのコミュニティは、キカプーインディアンに隣接して持続している。さらにブラック・セミノールのコミュニティは、大陸から離れてバハマ諸島のアンドロス島にも残っている。ここは19世紀、フロリダ戦争のころにアメリカの奴隷制から逃れた聖域として創設された。 2003年と2004年、オクラホマ州のセミノール自由人は、セミノール・ネーション・オブ・オクラホマとの、部族内の公民権を巡る法的な争いでニュースになった。自由人らはセミノール・ネーションに与えられる5600万ドルの決済の分配を増やすよう訴えた。争いはセミノール・インディアンが、何名かの自由人を、部族の決済と公民の権利を含めることから排除することを投票した後に発展した。2004年6月、合衆国最高裁は、彼らがセミノール・ネーションの承諾を得るまで、決済の包含について連邦政府に訴訟を起こすことをセミノール自由人らに許可しなかった。
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