西部の高台にあったとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:18 UTC 版)
「アクラ (要塞)」の記事における「西部の高台にあったとする説」の解説
研究者数名が、現在旧市街のユダヤ人街(英語版)となっている、エルサレム西部の丘にある上部地区にアクラがあったと提唱した。この仮説は、『マカバイ記2』に記されたエルサレムに設立されたヘレニズム時代のポリスである、アンティオシア内にあったアクラの位置を特定するために求めた仮説であった。この仮説に基づく新しい都市はヒッポダモスの計画で進めていたと思われており、西部の丘だけが必要な平らで広い土地を提供できる土地であったと推測された。さらに、丘の東端は神殿の丘に隣接しており、標高が高くなっていたというアクラに起因する2つの特徴があった。 この仮説に異議を唱えた者は、エルサレムにヘレニズム時代のポリスの設立を支持する考古学的、歴史的証拠がほとんど無く、アクラがヘレニズム時代の間、まばらにしか人が居住と思われる西部の丘に位置していたことは不自然だと指摘していた。今日のユダヤ人地区の発掘調査では、第一神殿時代で住人が生活していた証拠や、ハスモン朝やヘロデ大王の時代に居住地として更新された証拠は発見されたものの、ヘレニズム時代に人が居住していたという証拠はほぼ存在しなかった。ロドス島の刻印がされたアンフォラの取っ手の分布に関する調査により、エルサレムで発見されたアンフォラの取っ手の95 %以上がダビデの町で発掘されたことが明らかになり、セレウコス朝の統治下ではエルサレムはまだ西部の丘まで広がっていなかったことが示された。加えて、西部の丘はティロポエオン渓谷(英語版)によって神殿の丘とダビデの町から隔てられており、この位置にアクラがあった場合、エルサレムでも神殿や人口が多い東部にて、恐らく介入を要求する外的勢力と戦闘する上で戦術的に明らかに不利であったことからこの説は否定された。
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