西部への旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/17 17:10 UTC 版)
詳細は「モルモン開拓者」を参照 スミスの死後、ヤングは十二使徒定員会の上級使徒として教会を指導する責任を取った。後には教会の大官長かつ預言者になった。 ヤングはこのとき、正確にどこへ行くかとか、どこまで行けば終わりになるかというこも分かっておらずに、遥か西部に教徒達を率いて行く必要があった。ヤングは、誰も住むことを望まないような一つの場所にモルモン教徒が入植すべきであり、孤立したグレートベースンは教会に多くの利点を提供してくれると主張した。 ヤングはグレートソルトレイク・バレーやグレートベースンに関する情報を調べ、マウンテンマンや罠漁師達に相談し、その地域に詳しいイエズス会宣教師ピエール=ジャン・デ・スメーとも会談した。ロッキー山脈を越える道を開発するために先行隊を組織し、道の状況を評価し、水源を見つけ、グレートベースンで集合する場所を選択させることとした。プラット川やノースプラット川に沿ったルートは、既にその南岸にあったオレゴン・トレイルを使う旅人との牧草権、水の利用および宿営地などに関して起こりそうなトラブルを避けるために、北岸の新しいルートが選定された。 1845年10月のクィンシー会議でモルモン教徒が1846年5月までにノーブーを明け渡すよう要求する決議が可決されていた。その数日後のカーシッジ会議で、モルモン教徒が5月の日限を守らなかった場合に退去を強制するための民兵隊の設立が要求された。モルモン教徒はこの日限を守りグレートベースンへ向けて早期に出発する為に1846年2月にノーブーを出発し始めた。
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