西部を統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 06:53 UTC 版)
拓跋沙漠汗の次男として生まれた。容貌に優れ、才覚に溢れていた。また、知略・度胸は群を抜いていたという。 295年、叔父である拓跋禄官が大人(族長の呼称)となると、拓跋部を3分割した。彼の甥である拓跋猗盧は西部拓跋部の統治を任され、定襄郡盛楽の故城に鎮した。 拓跋猗盧は用兵に長けており、西方の匈奴や烏桓の諸族を討ち、これらを全て撃退した。また、衛操の進言を受け、晋の人間を拓跋部へ招聘し多くを移住させた。 304年、匈奴の劉淵が離石で兵を挙げると、7月に并州刺史司馬騰は拓跋部に援軍を要請した。拓跋猗盧は兄の拓跋猗㐌と共に軍を起こし、西河にて劉淵を撃破した。その後、汾東にて司馬騰と盟約を交わして帰還した。 307年、拓跋禄官が亡くなると、3分割された拓跋部を再び統一して自ら大人となった。また、鮮卑大単于を自称した慕容廆と修好を深めた。
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