フロンティア西部の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:27 UTC 版)
「ウィリアム・ダマー」の記事における「フロンティア西部の戦争」の解説
ダマーの総督代行としての任期は、歴史家のジョン・レイグルが「見栄えはしないが有能」と評していた。1723年の前半、現在のニューヨーク州アップステートにいたイロコイ族をアベナキ族に対抗する同盟者として組むことに注力し、現在のバーモント州を本拠にしていた西部アベナキ族のバンドを紛争に巻き込まないようにしていた。このどちらの試みも失敗した。イロコイ族はかなりの金で釣ったが、ヌーベルフランスと同盟していると見られる部族に対して、武器を取ることを拒んだ。彼らに特に利点もない紛争に巻き込まれることを避けた可能性もある。西部アベナキ族の指導者グレイ・ロックに送った使者は彼を見つけられなかった。 1723年8月、グレイ・ロックがコネチカット川バレーにあるマサチューセッツ・フロンティアの町に対する襲撃を始め、捕虜を取り、ノースフィールドでは損失も与えた。ダマーはコネチカット植民地の指導者たちに訴えて、12月にそこに民兵中隊を駐屯させたが、あまり効果はなかった。ダマーはノースフィールドの北に砦を建設することも認めた。その土地はマサチューセッツが境界紛争の代償としてコネチカットに与えたいわゆる「相当土地」にあり、数年前にコネチカットであった競売でダマーが獲得したものだった。防御柵を施した砦は現在のバーモント州ブラトルボロにあり、ダマー砦と呼ばれた。現在のバーモント州におけるヨーロッパ人による恒久的開拓の始まりと見なされている。 ダマー砦はインディアンによる襲撃を止めるには効果が薄かった。1724年にグレイ・ロックの襲撃が衰えを見せなかったとき、ダマーはコネチカット総督ガードン・サルトンストールに再度訴え、コネチカット川沿いにあるマサチューセッツの町が放棄された場合には、コネチカットが同じくらい脆弱になると言った。サルトンストールがさらなる援軍を送ったが、この地域のアベナキ族による襲撃は1727年まで続いた。この時までにグレイ・ロックは外部からの支援無しに戦争を続けることに明らかに飽きていた。ニューヨークのオールバニにあったインディアン代理人と、東部アベナキ族指導者から使者が送られたが、インディアン戦士との接触が出来なかった。グレイ・ロックはその後歴史から消えた。
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