1840年代以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 08:11 UTC 版)
1883年、のちのスーダンにおけるマフディー運動の指導者ムハンマド・アフマド (Muhammad Ahmad) は北コルドファンの主要都市オベイドを占領した。それを受けてエジプト政府(当時のエジプトはオスマン帝国から事実上の独立を果たしており、一方でイギリスの半植民地状態となっていた)は、首都カイロからイギリスのウィリアム・ヒックス将軍 (William Hicks) の指揮する軍を派遣したが、オベイド南部のシェイカン (Sheikan) で待ち伏せに合い、全滅し、マフディー国家が成立した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}それまで統一されたことのなかった「スーダン」における国民意識が形成された。[独自研究?]1898年には再びイギリスの攻撃を受け、マフディー国家は滅びた。 しかし、この十余年のマフディー国家の支配下で進出していたフランスのマルシャン部隊とイギリス軍がファショダ村(Kodok)で衝突し、ファショダ事件がおこった。この事件は、イギリスの南下政策とフランスの東進政策が背景にあったが、本国政府同士で話し合い、スーダンとモロッコの利権を交換する事で解決をみた。コルドファンは英領スーダンの一地域となった。
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