ナポレオン時代とオーストリア帝国 (1797 - 1918)
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「ダルマチア・イタリア人」の記事における「ナポレオン時代とオーストリア帝国 (1797 - 1918)」の解説
ナポレオン戦争中の1797年、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに征服され消滅した。ダルマチアは1805年から1809年までナポレオンの衛星国イタリア王国に含まれ(ラグーサ共和国がこれに加わったのは1808年)、1809年以後はフランス第一帝政の州・イリュリア州となった。ナポレオンの敗北が決定的となると、旧イタリア王国全体は1815年のウィーン会議によってオーストリア帝国のものとなった。これが約100年に及ぶオーストリア領ダルマチアの始まりだった。 オーストリア帝国時代、ダルマチア王国(en:Kingdom of Dalmatia)は帝国から分離された行政単位であった。 1848年革命後と1860年代の後、ナショナル・ロマンティシズムの結果として、2つの流れが生まれた。イタリア人、または自治派(未回収のイタリアを統一しようとする民族統一主義)で、政治的なゴールはオーストリア=ハンガリー帝国内での自治から、イタリア王国との政治的統合を目指す者まで様々だった。 クロアチア人(連合派またはプンタリ)は、人民党によって率いられ、それに続くのは権利党だった。この2つの党はどちらも、ハンガリー王国政府下でのクロアチア=スラヴォニアとダルマチアの連合を主張していた。ダルマチアでの政治的同盟は時を経て変化した。最初、連合派と自治派はともに同盟し、ウィーンへの中央集権に反対していた。しばらくして民族問題が頻発すると、彼らは同盟を解消した。 1867年、帝国はアウスグライヒによりオーストリア=ハンガリー帝国に再編された。リエカとクロアチア=スラヴォニア王国は、帝国内のハンガリー政府支配地域に割り当てられ、一方でダルマチアとイストリア半島は帝国政府支配下にとどまった。連合派は1870年のダルマチアでの選挙で勝利した。しかし、連合派はオーストリア帝国政府の介入のためクロアチア、スラヴォニアとの統合実現を妨げられた。 オーストリア時代は、ダルマチア・イタリア人の衰退の時代だった。1840年代以後、少数派イタリア人の多数は受動的にクロアチア化されたり、不利な経済状態の結果移住していった。 言語学者マッテオ・バルトーリによると、ヴェネツィア支配の終盤にダルマチア人口の33%は、イタリア語を話していた。オーストリア=ハンガリー時代の調査によれば、ダルマチア・イタリア人は1865年時点に人口の12.5%であり、1890年には人口の3.1%になっていた。
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