ナポレオン時代とリソルジメント
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/26 21:30 UTC 版)
「レッジョ・エミリア」の記事における「ナポレオン時代とリソルジメント」の解説
フランス第一帝政の時代、フランス軍が市で熱狂を持って迎えられた。1796年8月21日、600名を擁した公家の駐屯地が取り払われ、議会がレッジョと公国の支配を要求した。9月26日、州政府の義勇軍がモンテキアルゴーロの戦いでオーストリア軍の隊列を押し戻した。小規模でも、この衝突はイタリアのリソルジメントの最初のものとみなされている。ナポレオン・ボナパルト自身がレッジョ市民へ500丁のライフル銃と4つの銃を授けた。後、彼はエミリアを占領し、1797年1月7日にレッジョで建国されていたチスパダーナ共和国の新設県とした。イタリアの国旗はイル・トリコローレ(Il Tricolore)と名付けられ、レッジョの女性たちによって縫われた。この愛国的な熱狂の時代、ナポレオンの同盟者であった将軍ヤン・ヘンリク・ドンブロフスキ率いるポーランド軍の中尉ユゼフ・ヴィビツキは、レッジョで『ドンブロフスキのマズルカ』(1927年にポーランド国歌に制定された)を作曲した。 1815年、ウィーン会議でレッジョはフランチェスコ4世へ返還された。1831年、モデナはフランチェスコ4世に対して反乱を起こし、レッジョは司令官カルロ・ズッキのもとで組織された団体がこれに続いた。しかし、3月9日にフランチェスコ4世はオーストリア軍兵士の支援を受けて市を征服した。 1848年、フランチェスコ5世・デステは革命を恐れて国外へ去った。レッジョはピエモンテへの併合を宣言した。サルデーニャ王国のノヴァーラの戦い(en)での敗退が、市をエステ家支配へ引き戻した。1859年、独裁者ルイージ・カルロ・ファリーニ支配下にあったレッジョは、1860年3月10日の国民投票の結果新王国への併合が支持され、再度イタリア王国へ併合された。
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