ラグサ共和国
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- ラグサ共和国
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Respublica Ragusina
Dubrovačka Republika
Repubblica di Ragusa -
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←1358年 - 1808年 →
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(国旗) (国章) - 国の標語: Non bene pro toto libertas venditur auro
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1426年頃のラグサ共和国の領土 -
公用語 ラテン語(1492年まで)
イタリア語(1492年以降)
その他、クロアチア語やダルマチア語が話されていた。宗教 ローマ・カトリック 首都 ラグーサ 現在 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ

ラグサ共和国(ラグサきょうわこく、イタリア語: Repubblica di Ragusa、クロアチア語: Dubrovačka Republika、ラテン語: Respublica Ragusina、ハンガリー語: Raguzai Köztársaság)は、現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニク(イタリア語名:ラグーザ Ragusa)に存在した都市共和国である。
歴史
1358年にハンガリー王国から独立し、15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎え、15世紀にはラグサから出る通商船が300艘、ラグサの人口は4万人といわれた[1]。
独裁や汚職をふせぐため、総督の任期は1か月、連続しての再選は認められず、任期中は公式行事以外は総督邸を出ることは許されず、家族に会うことも出来なかった。侵略に備え食糧備蓄を行い、ときに大国に領土の割譲を強いられながらも外交方針は専守防衛に徹した。
1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、1808年にはイタリア王国に併合された。ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議では、オーストリア帝国の国力回復を目指す外相メッテルニヒが議長となっていたこともあり、ラグサ共和国の再独立は認められず、オーストリア領ダルマチア(ダルマチア王国)の一地方として、オーストリア帝冠領に併合された。以後、再独立することなく現在に至っており、1991年以降はクロアチア領となっている。
現在、ドゥブロヴニクの建物は1667年の大地震以降に再建されたものが多いが、ラグサ共和国時代の城壁やその他の建築物がほぼそのまま残っていて、世界遺産にもなっている[2][3]。旧市街のメインストリートであるプラッツァ通りの起点あたりに位置するスポンザ宮殿は地震にも倒壊することなく残った建物である。フランシスコ会修道院の回廊や中庭は14世紀創建時の面影を残している。また、1022年から1808年までのドゥブロヴニク共和国のアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された[4]。
関連項目
脚注
- ^ 大日本文明協会『墺地利匈牙利』大日本文明協会事務所、1916年4月15日、370頁 。
- ^ ラグサ
- ^ ラグサ共和国
- ^ “UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023年5月27日閲覧。
- ^ “Was Dubrovnik a Colonial Power?”. 3 Seas Europe (2023年6月24日). 2024年4月20日閲覧。
ラグーサ共和国
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「ラグサ共和国」も参照 東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国の下保護国の都市国家として沿岸部のセルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサはヴェネチア主権(1205年-1358年)の下に入り、ダルマチアの都市として権利を得ている。1358年、ザダル平和条約が結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。14世紀から1808年までラグーサは自由国として存続した。15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎えヴェネツィア共和国や他のイタリアの海洋都市国家がライバルであった。1272年にラグーサ共和国は自治権を獲得し、ローマ法や地元の慣習を成文化している。法令には都市計画や公衆衛生上の検疫に関する規則も含まれていた。 ラグサ共和国の時代、この町ではイタリア系とスラヴ系の住民が一貫して共存し、共に繁栄を支えていた。もともとイタリア系住民が住んでいた島の部分とスラヴ系住民の住む対岸の集落の間にある海峡を埋め立てることによって、両者の一体化はさらに進んだ。共和国では早い段階から現代的な法体系が整備されており、1301年には医療制度が確立しており1317年に現在でも営業している最初の薬局が開業している。1347年に養老院が1377年には隔離病棟が開かれた。1418年には奴隷貿易は廃止され、1432年に孤児院が開かれている。1436年に約20kmの水道施設が完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアやセルビアで産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀にオスマン帝国がバルカン半島の内部へと進出してくるとその宗主権を認め、ヴェネツィアがオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィアが独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった。貴族階級を含め、17世紀まで共和国の住人のほとんどはラテン由来の人々であったが周辺部からクロアチア人が移住するようになった。同時期、スラヴ系とラテン系の住民が一緒に住むようになり、スラヴの要素とルネサンス期のイタリア文化が影響しあいラグーサはクロアチア文学のゆりかごとなった。 共和国の経済は一部は土地の開発によってもたらされたが、大部分は海洋交易によるものであった。巧みな外交術は交易を助け、ラグーサの商品は自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した。各地で居住地も発見されている。多くのスペインやポルトガルからのマラーノやユダヤ人をラグーサはひき付けた。1544年、ほとんどをポルトガルの難民で占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア (Balthasar de Faria) がジョアン王に報告している。隆盛を極めたラグーサ共和国だが、1667年に発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易の不振と相まって徐々に後退を始める。地震では5,000人を超える市民が死亡し、公共の建物のほとんどは破壊された 。1699年、共和国はクロアチア本土にある2つの小区画の領地をオスマン帝国に売り、前へ進めるベネツィアの軍とオスマン軍との戦いに巻き込まれるのを避けた。今日、これらの土地はボスニア・ヘルツェゴビナに属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一、アドリア海に接する町であるネウムである。 1806年、周辺部をナポレオンの軍隊に包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月の包囲に降伏した。ナポレオンの最初の要求は自らの軍隊の自由な通行で、領土の占領や圧力ではなくフランスはラグーサの友人であるとした。しかしながらその後、フランスの軍は港を封鎖し共和国政府を強制し市内へ軍を進めた。1808年、オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国に統合され、フランス支配下のイリュリア州となる。
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