ラグーサ共和国とは? わかりやすく解説

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ラグサ共和国

(ラグーサ共和国 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 08:00 UTC 版)

ラグサ共和国
Respublica Ragusina (ラテン語)
Dubrovačka Republika (クロアチア語)
Repubblica di Ragusa (イタリア語)

1358年 - 1808年

(国旗) (国章)
国の標語: Non bene pro toto libertas venditur auro(ラテン語)

1426年頃のラグサ共和国の領土
公用語 ラテン語(1492年まで)
イタリア語(1492年以降)
その他、クロアチア語ダルマチア語が話されていた。
宗教 ローマ・カトリック
首都 ラグーサ
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
面積
1808年頃 1,500km²
人口
1808年頃 30,000人
変遷
成立 1358年
第四回十字軍(ヴェネツィアの侵攻) 1205年
ザダル条約英語版 1358年5月27日
フランスによる侵攻 1806年5月26日
ティルジットの和約 1807年7月9日
イタリア王国に併合 1808年1月31日
現在 クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ
ラグサ共和国の城壁などの様子をそのまま伝えるドゥブロヴニク

ラグサ共和国(ラグサきょうわこく、イタリア語: Repubblica di Ragusaクロアチア語: Dubrovačka Republikaラテン語: Respublica Ragusinaハンガリー語: Raguzai Köztársaság)は、現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニク(イタリア語名:ラグーザ Ragusa)に存在した都市共和国である。

歴史

1358年にハンガリー王国から独立し、15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎え、15世紀にはラグサから出る通商船が300艘、ラグサの人口は4万人といわれた[1]

独裁や汚職をふせぐため、総督の任期は1か月、連続しての再選は認められず、任期中は公式行事以外は総督邸を出ることは許されず、家族に会うことも出来なかった。侵略に備え食糧備蓄を行い、ときに大国に領土の割譲を強いられながらも外交方針は専守防衛に徹した。

1667年の大地震を契機に、そのころの地中海貿易の不振と相まって衰退が始まった。1806年にナポレオン軍に降伏し、1808年にはイタリア王国に併合された。ナポレオン没落後に開かれたウィーン会議では、オーストリア帝国の国力回復を目指す外相メッテルニヒが議長となっていたこともあり、ラグサ共和国の再独立は認められず、オーストリア領ダルマチア(ダルマチア王国)の一地方として、オーストリア帝冠領に併合された。以後、再独立することなく現在に至っており、1991年以降はクロアチア領となっている。

現在、ドゥブロヴニクの建物は1667年の大地震以降に再建されたものが多いが、ラグサ共和国時代の城壁やその他の建築物がほぼそのまま残っていて、世界遺産にもなっている[2][3]。旧市街のメインストリートであるプラッツァ通りの起点あたりに位置するスポンザ宮殿は地震にも倒壊することなく残った建物である。フランシスコ会修道院の回廊や中庭は14世紀創建時の面影を残している。また、1022年から1808年までのドゥブロヴニク共和国のアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された[4]

関連項目

脚注

  1. ^ 大日本文明協会『墺地利匈牙利』大日本文明協会事務所、1916年4月15日、370頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953378/205 
  2. ^ ラグサ
  3. ^ ラグサ共和国
  4. ^ UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023年5月27日閲覧。
  5. ^ Was Dubrovnik a Colonial Power?”. 3 Seas Europe (2023年6月24日). 2024年4月20日閲覧。

ラグーサ共和国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 01:32 UTC 版)

ドゥブロヴニク」の記事における「ラグーサ共和国」の解説

ラグサ共和国」も参照 東ゴート王国崩壊後、町はビザンティン帝国下保護国都市国家として沿岸部セルビア人などと交流があった。十字軍の後、ラグーサヴェネチア主権1205年-1358年)の下に入りダルマチア都市として権利得ている。1358年ザダル平和条約結ばれ隷属関係にあったハンガリー王国から独立を果たす。14世紀から1808年までラグーサ自由国として存続した。15世紀から16世紀にかけて最盛期迎えヴェネツィア共和国や他のイタリア海洋都市国家ライバルであった1272年にラグーサ共和国は自治権獲得しローマ法地元慣習成文化している。法令には都市計画公衆衛生上の検疫に関する規則含まれていた。 ラグサ共和国時代、この町ではイタリア系スラヴ系住民一貫して共存し、共に繁栄支えていた。もともとイタリア系住民住んでいた島の部分スラヴ系住民の住む対岸集落の間にある海峡埋め立てることによって、両者一体化はさらに進んだ共和国では早い段階から現代的な法体系整備されており、1301年には医療制度確立しており1317年に現在でも営業している最初薬局開業している。1347年養老院1377年には隔離病棟開かれた1418年には奴隷貿易廃止され1432年孤児院開かれている。1436年に約20kmの水道施設完成している。そもそもこの町は後背地であるボスニアセルビア産出される鉱石の積出港として栄えていたが、15世紀オスマン帝国バルカン半島内部へと進出してくるとその宗主権認めヴェネツィアオスマン帝国と度々戦争状態に入りその都度停滞したのとは裏腹に、かつてヴェネツィア独占的に果たしていた東西交易の中での役割をより確かなものとしていった貴族階級含め17世紀まで共和国住人のほとんどはラテン由来人々であった周辺部からクロアチア人移住するようになった同時期、スラヴ系ラテン系住民一緒にむようになり、スラヴ要素ルネサンス期イタリア文化影響しあいラグーサクロアチア文学ゆりかごとなった共和国経済一部土地開発によってもたらされたが、大部分海洋交易よるものであった巧み外交術は交易助けラグーサ商品自由に海を行き交い都市には巨大な商船団が存在した各地居住地発見されている。多くスペインポルトガルからのマラーノユダヤ人ラグーサはひき付けた1544年、ほとんどをポルトガル難民占めた船が着岸したとバルタサール・デ・ファリア (Balthasar de Faria) がジョアン王に報告している。隆盛極めたラグーサ共和国だが、1667年発生した壊滅的な地震の後、アドリア海交易不振相まって徐々に後退始める。地震では5,000人を超える市民死亡し公共建物のほとんどは破壊された 。1699年共和国クロアチア本土にある2つ小区画の領地オスマン帝国売り、前へ進めベネツィアの軍とオスマン軍との戦い巻き込まれるのを避けた今日、これらの土地ボスニア・ヘルツェゴビナ属しボスニア・ヘルツェゴビナでは唯一アドリア海接する町であるネウムである。 1806年周辺部ナポレオン軍隊包囲され、ロシア・モンテネグロ艦隊の3,000発の砲撃によってラグーサ共和国は1ヶ月包囲降伏したナポレオン最初要求は自らの軍隊自由な通行で、領土占領圧力ではなくフランスラグーサ友人であるとした。しかしながらその後フランスの軍は港を封鎖し共和国政府強制し市内へ軍を進めた1808年オーギュスト・マルモンはラグーサ共和国を廃しナポレオンの初の国家となるイタリア王国統合されフランス支配下イリュリア州となる。

※この「ラグーサ共和国」の解説は、「ドゥブロヴニク」の解説の一部です。
「ラグーサ共和国」を含む「ドゥブロヴニク」の記事については、「ドゥブロヴニク」の概要を参照ください。

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