植民地化のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)
18世紀後半の1787年、イギリスに奴隷貿易廃止委員会が設立されたのをきっかけに、人道的見地からくる奴隷制度の反対運動はますます激しくなり、1807年にはイギリス、アメリカで奴隷貿易禁止令が設立、各国も後を追うように1814年にはオランダ、1815年にはフランスでそれぞれ奴隷貿易が禁止とされた。イギリスやアメリカは自国の海軍力を背景として奴隷貿易の実力阻止を試みたが、闇社会での奴隷制はその後もしばらく継続し、完全に終止符が打たれたのは1880年代に入ってからのことであった。一方、1880年代以降には、ヨーロッパ各国によるアフリカ大陸に対する植民地政策が本格化しはじめる。スコットランドの探検家マンゴ・パークやヒュー・クラッパートンをはじめ、ヨーロッパ人のアフリカ内地への探検活動が活発化し、またキリスト教の布教活動も本格化していった。さらに、産業革命に伴い、奴隷に取って代わってアフリカの産物人気に火がついた。象牙の価格は1822年から1872年までの半世紀で4倍以上に跳ね上がり、列車の機械油の原料としてニジェール川のアブラヤシやセネガンビアの落花生が、石鹸やロウソクの原料としてヤシ油やピーナツ油の需要が急増した。 こうした探検家によって齎されるアフリカ内陸部の情報やアフリカ大陸が産出する資源の「可能性」はヨーロッパ各国の領土的な野心を大きく刺激した。
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