民族史観に基づいた解釈の流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:29 UTC 版)
「伽耶」の記事における「民族史観に基づいた解釈の流行」の解説
第二次世界大戦後の研究は、日本の出先機関を否定する前提に立つものであり、現代韓国の政治的欲求に解釈が左右されることが多い。 1970年代以降、全く調査されていなかった洛東江流域の旧加羅地域の発掘調査が進み、文献史料の少ない加羅史を研究するための材料が豊富になってきたが、現代韓国の政治的欲求に基づいた新民族史観に沿う仮説が盛んに主張されている。 高麗大学教授で日本古代史学者の金鉉球は、「『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっているのに、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝播される国際関係は説明がなされず、ただ高句麗・新羅・百済の三国が日本に文化を伝えた話だけを教えており、さらに百済・高句麗・新羅三国の文化を日本に伝えたとされる話は、朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないため、すべて『日本書紀』から引用している。しかし、日本の学者が『日本書紀』を引用して、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否するのは、明白な矛盾であり、こうしたダブルスタンダードゆえに日本の学界が韓国の学界を軽く見ているのではないか」と指摘している。 1990年代になると加羅研究の対象が従来の金官国・任那加羅(いずれも金海地区)の倭との関係だけではなく、田中俊明の提唱になる大伽耶連盟の概念でもって、高霊地域の大加羅を中心とする加羅そのものの歴史研究に移行していった。また1990年代後半からは、主に考古学的側面から、卓淳(昌原)・安羅(咸安)などの諸地域への研究が推進される一方で、前方後円墳の発見 を踏まえて一部地域への倭人の集住を認める論考が出されている。西谷正は倭人系百済官僚が栄山江流域に存在したと主張し、山尾幸久は、倭人の有力者が百済に移住し、百済女性との間に儲けた二世が外交の使者になっている例を挙げ、そのような倭人系百済官僚の存在を指摘し、田中俊明は、倭との関係が深く百済と一定の距離を置いていた特定の首長層の墓と主張している。 井上秀雄は、任那日本府は『日本書紀』が引用する逸書『百済本記』における呼称であり、『百済本記』とは百済王朝が倭国(ヤマト王権)に迎合的に書いた史書だとの主張した。これ基づき、井上は日本の従来研究を否定しようと試みている。任那日本府について近代での朝鮮総督府のようなものが想定されることが多いが、実態は、半島南部の倭人の政治集団だとした。三国志『魏志』韓伝に倭について記載があるが、この倭は、百済や新羅が加羅諸国を呼称していたもので、百済・新羅に国を奪われた加羅諸国の政治集団を指すとする。逸書『百済本記』の編者は、この加羅諸国の別名と、日本列島の倭国(ヤマト王権)とを結びつけたのであり、任那日本府とヤマト王権は直接的には何の関係も持たないとする仮説を打ち出した。 高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国と結び、倭国によって軍事を主とする外交機関(後に「任那日本府」と呼ばれた)が設置されていたとする説もある。吉田孝によれば、「任那」とは、高句麗・新羅に対抗するために百済・倭国(ヤマト王権)と結んだ任那加羅(金官加羅)を盟主とする小国連合で政治的領域を指し、地理的領域である伽耶地域とは重なり合うが一致しないこと、倭国が置いた軍事を主とする外交機関を後に「任那日本府」と呼んだと主張し、百済に割譲した四県は任那加羅が倭人を移住させた地域であったとした。また、532年の任那加羅滅亡後は安羅に軍事機関を移したが、562年の大加羅の滅亡で拠点を失ったという。
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