突如、王妃に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)
「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「突如、王妃に」の解説
当時のフランス王室カペー朝は、未だ王権が強固ではなく、直接の支配は王領のみに限られていたのに対し、アキテーヌ公家は広大な領地に加え、多数の有力貴族を臣従させていた。アリエノールの後見人となったルイ6世は、彼女の夫に自分の息子のルイ王太子を選び、婚姻によってアキテーヌを手に入れて王権を強固にさせようとする。 ルイ王太子は次男として誕生し、聖職者となるべく教育を受けていたが、兄フィリップが1131年に急死したため、王位継承者となった。1137年6月18日、ルイ王太子は十字軍遠征に匹敵する規模の行列で、ボルドーに向かう。ルイ6世の従弟のヴェルマンドワ伯ラウル1世、ブロワ伯兼シャンパーニュ伯ティボー4世、ルイ6世の学友でありパリ郊外のサン=ドニにあるサン=ドニ大聖堂の修道院長でもあるシュジェールが従い、ルイ6世は若い王子に王太子としての振舞いについて細かい注意を与え、シュジェールを通してアリエノールとの接し方を教えようとした。 7月1日に王太子一行はアキテーヌ領内に到着する。11日、ボルドーに到着したルイ王太子と対面したアリエノールは、その頼りなげな姿に落胆するものの政略によって人生が急変した点においてルイに共感した。しかし、アキテーヌ公家(ポワティエ家またはラヌルフ家)に比してカペー家の歴史は浅く、アキテーヌ公領の方が遥かに豊かで広大であることから、驕った考えを持ち内心でルイを見下していた。 25日にボルドーのサン=タンドレ大聖堂(英語版)(詳細は月の港ボルドーを参照)で結婚式が挙行、続く大宴会で1000人も招待され数日間賑やかに催された。8月1日、アリエノールとルイ王太子がポワティエ入りしたその日、ルイ6世が危篤となったため、王太子夫妻はパリに急行してルイ6世の葬儀を済ませ戴冠式も挙行する。こうして夫妻は結婚とほぼ同時に国王ルイ7世・王妃アリエノールとなった。 父の死から4ヶ月足らず、アリエノールは15歳でフランス王妃となった。南仏アキテーヌの女領主として育った陽気なアリエノールと、修道院育ちであり生真面目で信仰心の篤いルイ7世は性格が合わなかった。後に離婚した際にアリエノールはルイ7世のことを「王と結婚したと思ったら、僧侶だった」と言ったといわれる。しかしルイ7世の温和な性格から、不仲は表面化しなかった。2人の間にはマリー、アリックスの娘2人が生まれたが男子をもうけることは出来なかった。
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