乙百圓券
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1929年(昭和4年)12月28日の大蔵省告示第224号「兌換銀行券中百圓券改造」で紙幣の様式が定められている。主な仕様は下記の通り。 日本銀行兌換券 額面 百圓(100円) 表面 聖徳太子と法隆寺夢殿、兌換文言 裏面 法隆寺西院伽藍全景、断切文字 印章 〈表面〉総裁之印 〈裏面〉文書局長 銘板 大日本帝國政府内閣印刷局製造 記番号仕様記番号色 黒色 記番号構成 〈記号〉組番号:「{」+数字1 - 3桁+「}」 〈番号〉通し番号:数字6桁 寸法 縦93mm、横162mm 製造実績印刷局から日本銀行への納入期間 1928年(昭和3年)12月4日 - 1943年(昭和18年)9月28日 記号(組番号)範囲 1 - 94(1記号当たり900,000枚製造) 製造枚数 84,600,000枚 発行開始日 1930年(昭和5年)1月11日 通用停止日 1946年(昭和21年)3月2日(証紙貼付券に限り1946年(昭和21年)10月31日) 発行終了 失効券 関東大震災により滅失した兌換券の整理が必要となったことから1927年(昭和2年)2月に兌換銀行券整理法が制定され、従来の兌換券を失効させて新しい兌換券に交換するため、乙百圓券・丙拾圓券・丁五圓券が新たに発行された。 これまでに発行された日本銀行券では複数券種に同じ肖像が用いられるなどした結果券種間の識別が紛らわしくなっていたことなどから、額面ごとに肖像人物を固定化することとし、さらに輪郭や地模様、透かしに至るまで入念な検討のもとに肖像人物と関連性のある図柄が描かれることとなった。 地模様や輪郭に至るまで、券面全体に聖徳太子や、聖徳太子と関わりの深い法隆寺、さらに聖徳太子が活躍したとされる飛鳥時代に関連する図柄を散りばめたデザインであり、数ある歴代の日本銀行券の中でも特に緻密で凝ったデザインとなっている。技術的な面においても、当時の紙幣製造の最高技術を結集して製造されたものとなっている。 表面右側には唐本御影を原画とした笏を持つ聖徳太子の肖像が描かれている。聖徳太子の肖像については、これまでの日本の紙幣に掲載された肖像画とは異なり、唐本御影に描かれた聖徳太子像が一般に広く知られていたことから、これを基として立体的な肖像を検討し、さらに考古学者の高橋健自や歴史学者の黒板勝美等の考証を経て仕上げられた肖像画である。 表面左側には奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の夢殿があしらわれている。左右の輪郭は法隆寺に伝わる「金銅灌頂幔垂飾金具」の文様に「百」の文字を配置したもの、四隅の額面数字の輪郭は飛鳥時代の文様である。地模様には正倉院御物の「彩色御手匣」の花模様が、○囲みの「百」の文字の連続模様の上に重ねて印刷されている。肖像の周囲には、法隆寺が所蔵している「橘夫人念持仏厨子」の「阿弥陀如来像」の光背にある透かし彫りや花型の模様が聖徳太子の肖像を取り囲んでいる。 裏面中央には、金堂や五重塔、中門などが建ち並ぶ法隆寺の西院伽藍の俯瞰図が、正倉院御物の「八稜鏡」の形状の輪郭の中に描かれている。なおここに描かれた風景のうち五重塔の最上段については、実物では3本の柱で区画されているが、紙幣上は現物と異なり4本の柱で区画されているように描かれている。風景の上下には「法隆寺若草伽藍の軒瓦」の模様を、左右には法隆寺所蔵の「弥勒菩薩像」の「鳳凰文浮彫光背」にある鳳凰像を描いている。裏面右端には「日本銀行」の断切文字が印刷されているが、他券種とは異なり花弁模様の中に配置されている。これまで記載されていた英語表記の兌換文言は本券種から廃止され、英語表記は額面金額のみとなっている。 透かしも聖徳太子にゆかりのある図柄が採用されており、聖徳太子勝鬘経御講讃所用間道の「小幡」の赤地錦模様、正倉院御物の「鳥毛篆書屏風」から採られた鳳凰、および法隆寺文様の高山植物を組合せた「天平時代の裂の文様」の図柄である。従来の券種の透かしと比較して透かしが大型化されている。用紙については従前どおり三椏を原料とするものであるが、製法の変更により以前よりもやや黄色がかった色調の用紙に変更されている。また従来の百円紙幣は寸法が大きすぎる傾向にあったため券面の寸法を縮小し、同時に他額面の紙幣も含め一定の縦横比に統一した規格に揃えている。この券面寸法の規格は、小額の一部券種を除き1946年(昭和21年)に発行開始されるA百圓券まで維持されている。 使用色数は、表面5色(内訳は凹版印刷による主模様・地模様の一部1色、地模様2色、印章1色、記番号1色)、裏面4色(内訳は凹版印刷による主模様2色、地模様1色、印章・断切文字1色)となっている。 この聖徳太子の乙百圓券(B案)の発行以前の1923年(大正12年)に、別のデザインの百円紙幣が乙百圓券(A案)として製造準備されていた。A案の乙百圓券は表面右側に藤原鎌足の肖像、左側に談山神社の風景を描いたもので、用紙には菊・桐の図柄の透かしと染色した蚕糸を漉き込んだものであったが、その製造準備途中の紙幣は未完成の原版や試刷券、検討資料も含め関東大震災の影響で全て焼失してしまったため発行されなかった。 表面のデザインは不換紙幣であるい号券に流用されている。またA号券のデザインもこれに酷似している。乙号~A号の百円券の肖像は聖徳太子で、通称は「1次」~「4次」となっているため、この乙号券の通称は「1次100円」である。 1931年(昭和6年)12月の金兌換停止に伴い、それ以降は事実上の不換紙幣となり、1942年(昭和17年)5月の日本銀行法施行による金本位制の廃止に伴って法的にも不換紙幣として扱われることになった。 新円切替のため1946年(昭和21年)3月2日限りで通用停止となった。新円切替の際、乙号券~ろ号券に証紙を貼付し、臨時に新券の代わりとした「証紙貼付券」が発行された。この証紙貼付券は十分な量の新円の紙幣(A号券)が供給された1946年(昭和21年)10月末限りで失効した。
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