聖徳太子像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)
太子の姿を表現した絵画や彫刻も数多く作られてきた。こうした太子像は8世紀には成立していたと考えられるが、『伝暦』の普及と庶民への広がりにより様々な種類が制作された。杉山二郎は、日本美術史の中で太子像は一級品が乏しく、各時代の二級作家による造立が多かったことが太子像の特殊性を生み出したと指摘している。石川知彦は、太子像の多くは以下の6つに分類できるとしている。 南無仏太子像 『伝暦』に記されている「太子が2歳の春に東方を向いて合掌し、南無仏と唱えると手の中から舎利があらわれた」という伝説を表現した像で、二歳像ともいう。最も古い記録は『吾妻鏡』に記される承元4年(1210年)像に源実朝が建立した太子像だが、橘寺には持明院王子をモデルにして製作したという別の伝承もある。鎌倉時代初期に舎利信仰と結びつけて創作され、後に叡尊らが大量に制作したと考えられる。上半身が裸で袴を履いた無髪の童子が合掌した姿で作られることが多い。絵画・彫像ともに作例があるが、絵画は独立して描かれた像は少なく、ほとんどが彫像である。著名な作例として、絵画は叡福寺厨子入画像が、彫像は元興寺極楽坊南無仏太子像が挙げられる。 童形像 史料上は「童像」と記されるもののうち、袈裟を付けず柄香炉を持たない像で、元服前の19歳未満の姿とされる。絵画作例は少なく、最古の童形像は治暦5年(1069年)円快作で法隆寺絵殿に伝わった伝七歳座像で、法会の際には聖霊院に遷座した像と考えられる。これに類する像として、角髪を結い袍を着て笏をもつ執笏童形像とよばれるものも散見される。 孝養像 史料上は「童像」と記されるもののうち、袈裟を付けて角髪を結って柄香炉をもつ像で、最も広く流布した太子像である。『伝暦』に記される「太子が16歳の時に父用明天皇の病気治癒を祈願した」という伝説を表現した像で、十六歳像とも言う。鎌倉時代を遡るものはなく、現存最古とされるのは一乗寺聖徳太子十童子像で、天台宗周辺で創作された図像と考えられる。元興寺極楽坊像が5000人の結縁者によって造立された例など民衆への太子信仰の広がりと共に普及し、浄土真宗によって広く定着したと考えられる。絵画・彫刻ともに作例が多く、衣服や髪型、手に持つ物、姿勢などにも様々なバリエーションが存在するが、多様な図像の存在は南都絵所や四天王寺絵所を中心に多様な絵師・僧侶が創作に関わった事を示すと考えられる。なかでも立像は『伝暦』説話を表現した説話画よりも、礼拝の対象とした礼拝画としての要素が強いとされている。 騎馬太子像 この像には、馬上太子像(合戦像)と黒駒太子像の2種がある。馬上太子像は、丁未の乱での太子16歳を図像化したもので、角髪を結い袍を着て弓箭を帯びている。絵画作例が主で、彫像もあるがいずれも近世の作例である。黒駒太子像は、『補闕記』や『伝暦』に見える「調使麻呂を随行させ、愛馬黒駒に乗って天上遊行(目的地は富士・越州、あるいは全国)を行った」という太子27歳の伝承を図像にしたものである。遅くとも室町時代には成立し、東北地方に作例が多く初期真宗あるいは善光寺聖との関係が指摘されている。ただしこの2種の騎馬太子像は明確に区別されなかったようで、天上遊行する馬上太子像、あるいは黒駒に乗る馬上太子像も存在している。 摂政像 太子が成人になり摂政となった姿で、両手で笏を持ち袍を着て巾子冠を被る像。摂政太子とも呼ばれる。一般には22歳以降の姿とされ、史料に「霊像」と記されるものはこのタイプと推測されている。古例とされるのは、法隆寺聖霊院本尊の太子像や唐本御影で、これを祖型として鎌倉時代以降に定型化されたと考えられる。絵画の遺品が多く、四天王寺楊枝御影などが代表例。彫刻は少ないがでは達磨寺の太子像が著名である。 勝鬘経講讃像 『伝暦』に記されている「太子が35歳の時に推古天皇の命により『勝鬘経』を講讃したところ、蓮華が降る奇端が起きた」という伝説を表現した像で講讃像とも言う。壮年の姿で冕冠を被り、袍に袈裟を付ける姿で左手に塵尾を持って座す姿である。図像の成立は奈良時代とされ、平安後期には独立して描かれるようになった。絵画の遺品が多いが彫像もある。絵画では斑鳩寺勝鬘経講讃、彫像では橘寺勝鬘経講讃像が著名。 その他の太子像 以上の6つに分類できないものとして伝承に基づかない太子像もあるが、その代表が広隆寺桂宮院本堂の本尊である聖徳太子立像である。この像は、角髪を結う童形像(後世に冠を被る姿に改められている)でありながら笏と柄香炉を持ち、太子が観音に垂迹した形を示すとされている。この様式は叡福寺にも引き継がれている。また、四天王寺の「孝養御影」や初期浄土真宗寺院で「真俗二諦像」と称された像も笏と柄香炉を持っている。その他に孝養像の派生として、柄香炉を持ちながら左右に童子を従える三尊像も存在する。薬師寺の傘蓋を掲げた童子を引き連れた像は、48歳に自らの御廟を訪れた像という説があり、また、鶴林寺の三尊像は太子を釈迦になぞらえた像とされている。 南無仏太子像奈良国立博物館蔵 孝養像メトロポリタン美術館蔵 摂政像奈良国立博物館蔵朱の袍衣に佩刀を付ける 摂政像法隆寺聖霊院本尊写真では外されているが実物は後補の冕冠がつけられている 勝鬘経講讃像斑鳩寺 勝鬘経講讃像橘寺 孝養像・二王子二天像鶴林寺
※この「聖徳太子像」の解説は、「太子信仰」の解説の一部です。
「聖徳太子像」を含む「太子信仰」の記事については、「太子信仰」の概要を参照ください。
- 聖徳太子像のページへのリンク