A病院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:42 UTC 版)
「北九州市病院長殺害事件」の記事における「A病院」の解説
事件当時、Aの経営していた「A病院」は、外科・内科・小児科・放射線科を有していた大病院(ベッド数171床)で、他の病院が受け入れたがらない生活保護受給者や暴力団員も「人道的措置」と称して積極的に入院させることで、入院患者数を増やし、常時130人以上の入院患者がいた。これにより、病院は健保制度と医師優遇税制の恩恵を享受していた。しかし、常勤医師は院長A以外に1人しかおらず、入院患者の無断外泊や、飲酒・覚醒剤濫用、病院内での患者同士の喧嘩を発端とする殺人事件の発生などが問題視され、小倉医師会から入院患者の監督を十分行うよう、厳しい注意を受けたこともあった。特に事件発生より半年前(1979年5月)には、入院中の患者同士が飲酒して喧嘩し、1人が殴られて死亡する事件が発生していた。これに加え、警察に追われた暴力団員が逃げ込むような形で入院するようなこともあったため、「検察に『A病院』の診断書を持っていっても信用されないようになっていた」という証言もある。また、事件当時は老朽化が著しくなっており、A自身も佐賀県まで病院の後継者探しに出掛けていたほか、知人に対し、「マンションでも経営しながらのんびり暮らしたい」とこぼすなど、病院経営に疲れを見せていた。 「A病院」は事件後、院長であるAが死亡したことにより廃業。入院患者135人は別の病院に転院し、1979年11月28日、病院職員(事務員・看護師ら)35人も全員退職した。一方、遺された不動産会社は妻が継承した。なお、次女は1987年(昭和62年)3月17日、身代金目的の誘拐事件の被害に遭ったが、約12時間後に無事保護されている。
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