大アジア主義・戦時中の発言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 01:10 UTC 版)
「平野義太郎」の記事における「大アジア主義・戦時中の発言」の解説
1937年、留置中に転向した平野は、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義の歴史的基礎』を発表する。同書は、戦後、転向後の「逸脱」として顧みられることはなかったが、近年、「日本におけるアジア主義の終着点」とも評価され、見直されはじめている。平野は同書において「アジアにおける植民地態勢打破の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者もまたわが日本だった」とし、樽井藤吉や、荒尾精、大井憲太郎らの系譜の延長に、孫文の大亜洲主義を位置づけたうえで、日本と中国との連合への試みとして、大東亜共栄圏を捉えた。他方で、平野は一億玉砕を唱えた参謀本部戦争指導班長の松谷誠大佐の部外協力者の一人であり、敗戦革命をにらんだ松谷の国家再建方策(近衛上奏文参照)への協力も考えると、平野の転向は偽装であり、彼の「大東亜共栄圏」構想は、共産化が必然と捉えていた日本と中国、ソ連を中心とした東アジアの赤化構想の実現を図るための仮面であった可能性が高いという評価もある。
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