平野義太郎とは? わかりやすく解説

平野義太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 01:31 UTC 版)

平野 義太郎 ひらの よしたろう
人物情報
生誕 (1897-03-05) 1897年3月5日
日本東京市京橋区
死没 1980年2月8日(1980-02-08)(82歳没)
学問
研究分野 法学(民法ゲルマン法)
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平野 義太郎(ひらの よしたろう、1897年3月5日 - 1980年2月8日[1])は、日本マルクス主義法学者、中国現代史研究者、平和運動家。父は建築家の平野勇造で、石川島造船所(現・IHI)創業者・平野富二は祖父に当たる。

来歴

1897年、東京市京橋区築地に生まれる。父の勇造は平野富二の娘婿で養子であったが、1899年に祖母(富二の未亡人)の介入により離縁されたという[2]。勇造と別れた後、義太郎は平野家の家督を継いだ[3]

東京開成中第一高等学校を経て、1921年東京帝国大学法学部卒、同助手。1923年、東京帝国大学法学部助教授[4]。同年、実業家安場末喜の娘嘉智子と結婚、媒酌人は穂積重遠夫妻と鶴見祐輔夫妻であった[5]

1924年産業労働調査所に入り、社会主義の実践運動に参加するようになった[6]1927年-1930年フランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究する。カール・ウィットフォーゲルヴィルヘルム・ヴントの講義を受講。ドイツ共産党日本語部との交流もあった[7]

1930年、帰国後、共産党シンパ事件に加担したとして治安維持法違反で検挙されて免官処分[1]、執行猶予付きの有罪判決を受けた。

もともとは民法ゲルマン法の研究者として出発したが、1932年に野呂栄太郎らと『日本資本主義発達史講座』を編集し[1]講座派の論客として知られるようになった。

1936年7月にはコム・アカデミー事件警視庁特高一課に検挙され、高輪警察署で8か月にもわたる厳しい取り調べを受けた。 他の検挙者が次々と転向する中で頑なに転向拒否を続けたが、同年12月には理論と立場を清算して転向を表明[8]1937年(昭和12年)3月になり、ようやく釈放された[9]

1946年民主主義科学者協会(民科)に参加、1948年民科東京支部長。1949年、平和を守る会書記長、日本学術会議会員、日本中国友好協会副会長に相次いで就任し多方面で活動した[10]。戦争中の大東亜戦争賛美により戦後は教職追放。その後復権し、1956年2月から20年間にわたって日本平和委員会会長を務めるなど、平和運動家となる。しかし1976年6月に日本平和委員会会長を解任されて名誉会長にさせられ、晩年は共産党陣営内で半ば失脚状態であった[11]

中国研究家でもあり、1946年1月27日には中国研究所伊藤武雄石浜知行とともに創設[12]して所長を務めた(1946年-1960年)ほか[1]現代中国学会(現、日本現代中国学会)幹事長・会長(1951年-1960年)に就任する。(いずれも初代)

1953年に行われた第3回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で立候補し、10万を越える票を得たが落選している[13]

1967年文化大革命の影響で中国研究所から除名される。1968年龍谷大学法学部教授に就任[1][10]

1972年7月8日には、福島要一日本学術会議会員)、森川金寿(弁護士)らとともに「インドシナにおけるニクソンの戦争犯罪、日本政府・財界の共犯を告発する東京集会」を神田の学士会館で開催。当時、強化されつつあったベトナム北爆に抗議した[14]

1980年、結腸癌のため死去[15]。墓所は谷中霊園[16]

家族・親族

大アジア主義・戦時中の発言

1937年、留置中に転向した平野は、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義の歴史的基礎』を発表する。同書は、戦後、転向後の「逸脱」として顧みられることはなかったが、近年、「日本におけるアジア主義の終着点」とも評価され[18]、見直されはじめている。平野は同書において「アジアにおける植民地態勢打破の先駆者はわが日本であり、アングロサクソンの世界旧秩序打開の創始者もまたわが日本だった」とし、樽井藤吉や、荒尾精大井憲太郎らの系譜の延長に、孫文大亜洲主義を位置づけたうえで、日本と中国との連合への試みとして、大東亜共栄圏を捉えた[19]。他方で、平野は一億玉砕を唱えた参謀本部戦争指導班長の松谷誠大佐の部外協力者の一人であり[20]、敗戦革命をにらんだ松谷の国家再建方策(近衛上奏文参照)への協力も考えると、平野の転向は偽装であり、彼の「大東亜共栄圏」構想は、共産化が必然と捉えていた日本と中国、ソ連を中心とした東アジアの赤化構想の実現を図るための仮面であった可能性が高いという評価もある[21]

著作

「平和に生きる権利」と刻まれた平野義太郎の記念碑。谷中霊園。

単著

  • 『民法に於けるローマ思想とゲルマン思想』有斐閣、1924
  • 『法律における階級闘争』改造社、1925
  • 『日本資本主義社会の機構』岩波書店、1934
  • 『民族政治学の理論』日本評論社、1943
  • 『民族政治の基本問題』小山書店、1944
  • 『大アジア主義の歴史的基礎』河出書房、1945
  • 『日本資本主義社会の機構と法律』明善書店、1948
  • 『平野義太郎新著作集』理論社、1954-56
  • 『自由民権運動とその発展』新日本出版社、1977

共編著

  • 清野謙次『太平洋の民族=政治学』日本評論社、1942
  • 上林貞治郎『西ドイツ国家独占資本主義と労働者階級』大月書店、1970

翻訳

脚注

  1. ^ a b c d e 平野 義太郎」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E9%87%8E%20%E7%BE%A9%E5%A4%AA%E9%83%8Eコトバンクより2022年7月7日閲覧 
  2. ^ 山口勝治『三井物産技師平野勇造小伝―明治の実業家たちの肖像とともに―』西田書店、2011年、p.79
  3. ^ 山口勝治、2011年、p.127
  4. ^ 『東京帝国大学一覧 從大正12年 至大正13年』東京帝国大学、1924年8月、p.447
  5. ^ 今西、2008、p.25
  6. ^ 今西、2008、p.25
  7. ^ 今西、2008、p.27
  8. ^ 「平野義太郎も転向の意思を洩らす」『東京朝日新聞』昭和11年12月15日(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p196 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 「転向の山田盛太郎ら五人を釈放」『東京日日新聞』昭和12年3月21日夕刊(昭和ニュース事典編纂委員会 『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p215 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ a b 今西、2008、p.28
  11. ^ 吉田嘉清「原水爆禁止運動のなかで」平野義太郎 人と学問編集委員会編『平野義太郎 人と学問』大月書店、1981年、226-227頁。
  12. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、351頁。ISBN 4-00-022512-X 
  13. ^ 参議院事務局庶務部資料課編『参議院議員選挙一覧 第3回(昭和28年版)』参議院事務局、1955年、p.95
  14. ^ 「北爆強化に抗議 学者知識人ら」『朝日新聞』昭和47年(1972年)7月9日朝刊、13版、22面
  15. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)24頁
  16. ^ 平野富二・平野義太郎の墓”. meiji-ishin.com. 2024年12月2日閲覧。
  17. ^ 今西、2008、p.24
  18. ^ 武藤,2003 および山室信一『思想課題としてのアジア』岩波書店、2001
  19. ^ 武藤,2003、p.44
  20. ^ 松谷誠『大東亜戦争収拾の真相』芙蓉書房、1980年82、117、158頁。
  21. ^ 平間洋一「本土決戦一億玉砕を叫んだ敗戦革命論者たち」『別冊正論 Extra15』産経新聞社、2011年、163-164頁。

参考文献

関連項目

外部リンク


平野義太郎

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アジア主義」の記事における「平野義太郎」の解説

マルクス主義者であるが、転向後、中国華北部での自然村調査などをへて、1945年に『大アジア主義歴史的基礎』において、大アジア主義主張同書近年、「日本におけるアジア主義終着点」とも評価され見直されはじめている。

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「平野義太郎」を含む「アジア主義」の記事については、「アジア主義」の概要を参照ください。

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