戦時中の朝鮮人の労働
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 01:08 UTC 版)
日中戦争が激化する中の1939年7月に日本政府は朝鮮人男性を日本国内の鉱山、炭坑、土木の三分野に限定して労働者として動員することを決定した。当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、1942年7月から「労務協会斡旋」に変更され、1944年9月から「徴用」によった。 佐渡金山を経営する三菱鉱業株式会社(現三菱マテリアル株式会社)佐渡鉱業所も当初は忠清南道で募集をかけている。当時朝鮮南部は大干害で疲弊しており生活難に陥った農民が大量に発生していたので募集に応じる者は多かった。2年か3年の契約であることが多かったので1942年代に契約期間が切れる者が出始めたが、三菱鉱業側は継続就労手続修了者に適当時期に個人表彰状や相当の奨励金を授与することで就労継続を促進した。1944年12月18日からは佐渡鉱業所は軍需省から「管理工場」に指定され「現員徴用令書」が伝達され朝鮮人労働者に対する強制度が高まった。 また朝鮮人労働者は日本人労働者より待遇面で不利であることが多かった。1942年5月時点では佐渡鉱山には日本人709名、朝鮮人584名の合計1239名が働いていたが、「運搬夫」、「磐岩夫」、「外運搬夫」、「支柱夫」といった坑内労働に朝鮮人の割合が高く、「工作夫」、「雑夫」、「製鉱夫」「其他」といった坑外労働に日本人の割合が高い(日本人が100%になっている「其他」は選鉱婦のことであると思われる)。このことから危険な坑内労働は主として朝鮮人に割り当てられていたことが分かる。また給与の面でも朝鮮人労働者は農民だった者が大半だったので技能が要求される「請負制度」のもと一般に日本人労働者より不利だった。 佐渡への朝鮮人の動員は1945年7月が最後であり、労働者だけで「回を重ねて総数千二百名人」だったという。 1945年中には佐渡鉱山の銅採掘の実績が上がらなかったので、佐渡の朝鮮人労働者が過剰となり、佐渡の朝鮮人のうち189名が第一次挺身隊として埼玉県、ついで219名の朝鮮人が第二次挺身隊として福島県に送られ、それぞれの県の地下工場の建設作業に従事した。1945年8月15日の終戦時には佐渡鉱山には244名の朝鮮人労働者が残っており、その後挺身隊として佐渡を離れていた朝鮮人労働者たちも順次佐渡に戻り(一部は行方不明)、日本に永住することを希望する一部の者を除いて多くは新潟港から朝鮮半島へ帰国していった。
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