戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について
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「日本統治時代の朝鮮人徴用」の記事における「戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について」の解説
研究・分析 木村,2005は、朝鮮人元労務者の証言・回顧を分析するなかで、1944年9月の「一般徴用」開始以前に動員されているはずの人々が自身の動員を「徴用された」と回顧していること、また量的に多数を占めていたはずの「官斡旋」への言及がほとんど見られない点に気づき、次のように分析している。 ここではこの点を知る為の具体的資料として比較的良く知られた、朝鮮人強制連行真相調査団編『強制連行された朝鮮人の証言』(明石書店、1990年)から見てみることにしよう。この資料には、都合、23名の「体験者」の証言が挙げられている。これらの事例は、目次を見ると、12件13人の「強制連行」に関する事例と、10件10人の「強制労働」に関する事例とに区分されている。 「強制連行」に関わるとされる10件の事例の概略は<表9>のようになる。一見してわかることが幾つかある。第一は、ここで挙げられている事例においては、正確な期日が明らかでないものを含めて、全てが1944年9月の一般徴用開始以前の時期の動員であること、第二に、にも拘らずその多くが、自らが「徴用」により日本へと動員されてきた、と回想していることである。『日本人の海外活動に関する歴史調査』が述べるように、1944年9月以前には、一般労務に対する徴用は未だ実施されておらず、その範囲は、「軍関係方面労務」に狭く限定されていた。このことは既に挙げた統計的数値にも明確に現れている。 第三に注目されることは、これまでの分類においては重要な地位を占め、就中、1942年から43年までの間の朝鮮半島から内地に対する人的動員において圧倒的な比重を占めた筈の、「官斡旋」に関する直接的言及が見られないことである。(中略)このような問題を考える上で、最初の手がかりとなるのは、文献資料においては、朝鮮半島における総動員において重要な比重を占める筈の「官斡旋」に対する直接的言及が、どうして『強制 連行された朝鮮人の証言』に収録された「体験者」の回想においては出てこないのか、ということであるかも知れない。既に述べたように、朝鮮半島において国民徴用令による一般徴用が開始されたのは、1944年8月閣議決定を経て後のことであり、それ以前における徴用は、狭く「軍関係労務」に限定され、その数も朝鮮半島から内地への動員全体に対して数パーセントの比重を占めるだけに過ぎなかった36。徴用先等の性格から見て、『強制連行された朝鮮人の証言』に収録された事例においては、これ以前に内地へと既に移住し、内地にて徴用を受けた事例を除いては、これに該当すると思われる事例は極めて少ない。このような資料と「証言」の両者を整合的に理解する唯一の方法は、そもそも当時の朝鮮半島 の人々の意識の中には、「官斡旋」という独自の分類は存在せず、「官斡旋」と「徴用」を一括りにして、「徴用」として理解されていたのではないか、ということであろう。そのことは、「官斡旋」とは異なり、「募集」の方は様々な資料37において比較的明確な形で出ていることによって裏付けられるかかも知れない。(pp.334,337) 証言 以下の3例は、戦争前から渡日していた自身と、労務動員されて来た人々を区分していた事例。文中「成合」は、大阪府高槻市北部の地名のほか、同地で建設されていた地下司令部/地下工場タチソの建設現場もさす。 --本などによると、かなり虐待され、殺されたり、ひどいようですが。朴さん 炭鉱地帯は特にひどい。それは、あの当時の常識や。炭鉱や鉄道敷き、ダム工事なんかに行かされた人間はかわいそうや。成合ではそういうことはなかった。炭鉱ではたこ部屋といって、監獄よりまだひどい。徴用以外でも自ら来た人間でも、そういう目にあっている。ここは3交代だから時間内きちっと働いたらあとはいい。ただ落盤事故で3人程死んだけど。(中略)徴用で連れてこられた人はすぐ帰国して行った。だから、今の成合に住んでいるものは、戦争が始まる前から住んでいた者がほとんどだ。--朴昌植「差別は今も変わらへん」,p.49 成合には徴用で連れてこられた人間も何人かいるけど、朝鮮での生活は苦しかったので、わしのように徴用の前に来た人間も多い。--宋慶熙「これでも自分たちの学校や」,p.51 私が成合きてみたらね。山という山に穴ばっかりや。トンネルの中で兵隊に仕事さした訳や。私らは,それを掘るために働かされた訳や。私はしなかったけれども,ここの成合は,徴用でひっぱられてきて働かされた朝鮮人たちの飯場や。--金盛吉「仕事いうても何もあらへんねん」,p.51 以下は、戦時動員の現場で働いたことを「徴用」と称している例。 姜さん佐賀県から逃げてきたあくる年に、ここへあがってきた。19年(昭和)11月や。成合に来たのは、だまされてきた。「大阪のどこか、ええとこあるから行こや」と言われた。こっち(自分)はまだ若いから、ええとこと聞いたらどこでも行く。それで又だまされてここへきたわけや。--きてみたら、ここは軍事工場でしたか。姜さん ああ、そうや。(中略)最初、徴用に来た時、日本語全然知らんかった。--姜明寿「ハラへってどうにもならん」,p.50
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