戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性についてとは? わかりやすく解説

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戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 06:14 UTC 版)

日本統治時代の朝鮮人徴用」の記事における「戦時中の朝鮮半島における労務動員が一律に「徴用」と認識されていた可能性について」の解説

研究・分析 木村,2005は、朝鮮人労務者証言回顧分析するなかで、1944年9月の「一般徴用開始以前動員されているはずの人々自身動員を「徴用された」と回顧していること、また量的に多数占めていたはずの「官斡旋」への言及がほとんど見られない点に気づき次のように分析している。 ここではこの点を知る為の具体資料として比較良く知られた、朝鮮人強制連行真相調査団編『強制連行された朝鮮人証言』(明石書店1990年)から見てみることにしよう。この資料には、都合23名の「体験者」の証言挙げられている。これらの事例は、目次を見ると、1213人の「強制連行に関する事例と、1010人の「強制労働に関する事例とに区分されている。 「強制連行」に関わるとされる10件の事例概略は<表9>のようになる一見してわかることが幾つかある。第一は、ここで挙げられている事例においては正確な期日明らかでないものを含めて全て1944年9月一般徴用開始以前時期動員であること、第二に、にも拘らずその多くが、自らが「徴用」により日本へと動員されてきた、と回想していることである。『日本人海外活動に関する歴史調査』が述べるように、1944年9月以前には、一般労務対す徴用未だ実施されておらず、その範囲は、「軍関係方面労務」に狭く限定されていた。このことは既に挙げた統計的数値にも明確に現れている。 第三注目されることは、これまでの分類においては重要な地位占め就中1942年から43年までの間の朝鮮半島から内地対す人的動員において圧倒的な比重占めた筈の、「官斡旋に関する直接的言及見られないことである。(中略)このような問題考え上で最初の手がかりとなるのは、文献資料においては朝鮮半島における総動員において重要な比重占める筈の「官斡旋」に対す直接的言及が、どうして『強制 連行された朝鮮人証言』に収録された「体験者」の回想においては出てこないのか、ということであるかも知れない。既に述べたように、朝鮮半島において国民徴用令による一般徴用開始されたのは、1944年8月閣議決定経て後のことであり、それ以前における徴用は、狭く「軍関係労務」に限定され、その数も朝鮮半島から内地への動員全体に対してパーセント比重占めるだけに過ぎなかった36徴用先等の性格から見て、『強制連行された朝鮮人証言』に収録され事例においては、これ以前内地へと既に移住し内地にて徴用受けた事例除いては、これに該当する思われる事例極めて少ない。このような資料と「証言」の両者整合的に理解する唯一の方法は、そもそも当時朝鮮半島人々の意識中には、「官斡旋」という独自の分類存在せず、「官斡旋」と「徴用」を一括りにして、「徴用」として理解されていたのではないかということであろうそのことは、「官斡旋」とは異なり、「募集」の方は様々な資料37において比較明確な形で出ていることによって裏付けられるかかも知れない。(pp.334,337) 証言 以下の3例は、戦争前から渡日していた自身と、労務動員されて来た人々区分していた事例文中成合」は、大阪府高槻市北部地名のほか、同地建設されていた地下司令部/地下工場タチソ建設現場もさす。 --本などによると、かなり虐待され殺されたり、ひどいようですが。朴さん 炭鉱地帯は特にひどい。それは、あの当時常識や。炭鉱鉄道敷きダム工事なんかに行かされた人間はかわいそうや。成合ではそういうことはなかった。炭鉱ではたこ部屋といって監獄よりまだひどい。徴用以外でも自ら来た人間でも、そういうにあっている。ここは3交代だから時間きちっと働いたらあとはいい。ただ落盤事故で3人程死んだけど。(中略徴用連れてこられた人はすぐ帰国して行った。だから、今の成合住んでいるものは、戦争が始まる前から住んでいた者がほとんどだ。--昌植「差別は今も変わらへん」,p.49 成合には徴用連れてこられた人間何人かいるけど、朝鮮での生活は苦しかったので、わしのように徴用前に来た人間も多い。--宋慶熙「これでも自分たちの学校や」,p.51 私が成合きてみたらね。山という山に穴ばっかりや。トンネルの中で兵隊仕事さした訳や。私らは,それを掘るために働かされた訳や。私はしなかったけれども,ここの成合は,徴用でひっぱられてきて働かされ朝鮮人たちの飯場や。--金盛吉仕事いうても何もあらへんねん」,p.51 以下は、戦時動員現場で働いたことを「徴用」と称している例。 姜さん佐賀県から逃げてきたあくる年に、ここへあがってきた。19年(昭和)11月や。成合に来たのは、だまされてきた。「大阪のどこか、ええとこあるから行こや」と言われた。こっち(自分)はまだ若いから、ええとこ聞いたらどこでも行く。それで又だまされてここへきたわけや。--きてみたら、ここは軍事工場でしたか。姜さん ああ、そうや。(中略最初徴用に来た時、日本語全然知らんかった。--姜明寿「ハラへってどうにもならん」,p.50

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