戦時中の川端道喜とは? わかりやすく解説

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戦時中の川端道喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)

川端道喜」の記事における「戦時中の川端道喜」の解説

川端道喜の「御朝物」の献上は、商人忠節という題材戦時中教科書掲載された。しかし昭和15年1940年)頃から、砂糖など和菓子原料入手が困難になり始めた。そして戦時体制教唆される中、和菓子製造販売白眼視されるようになる。物不足が深刻化する中、茶道出されるお茶菓子統制のやり玉に挙げられ昭和17年1942年)には配給円滑適正化の名のもとに、和菓子業者整理統合押し進められ、次々と廃業追い込まれた。危機感抱いた京都表千家裏千家など九流派の茶道家たちは、昭和17年1942年2月に「京都茶道教材協議会」を発足させ、茶菓子確保図ったその結果同年3月から茶道稽古菓子の特別配給認められた。京都府戦時下において残すべき伝統的な和菓子選定進めることになり、9月には「生菓子特殊品審査会」を立ち上げた結局、約80候補和菓子の中から、一店につき一品目という制限設けた上で農林省規定に基づき和生菓子特殊銘柄品として18品目指定した川端道喜のちまきも指定品目選ばれたため、「特殊銘柄品」として製造販売認められた。 ところが戦時下経済状況著し悪化によって「和生菓子特殊銘柄品」の指定有名無実化した。京都府当局識者の意見に基づき改め川端道喜など7軒の和菓子店で「京都銘菓協会」を組織させた。「京都銘菓協会」以外で営業続けられたのは虎屋など数軒の和菓子店に過ぎず終戦時までまがりなりにも営業認められ京都和菓子店は十数軒に過ぎなかった。しかし「京都銘菓協会」に加入して営業認められていた川端道喜においても、材料となる砂糖小豆等の特別配給があったわけではない。そのため通年営業不可能で、数カ月一度程度配給が行われた後に細々製造販売行っていた。しかし結局昭和19年1944年)には事実上休業余儀なくされた。

※この「戦時中の川端道喜」の解説は、「川端道喜」の解説の一部です。
「戦時中の川端道喜」を含む「川端道喜」の記事については、「川端道喜」の概要を参照ください。

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