戦時中の川端道喜
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川端道喜の「御朝物」の献上は、商人の忠節という題材で戦時中の教科書に掲載された。しかし昭和15年(1940年)頃から、砂糖など和菓子原料の入手が困難になり始めた。そして戦時体制が教唆される中、和菓子の製造販売は白眼視されるようになる。物不足が深刻化する中、茶道に出されるお茶菓子は統制のやり玉に挙げられた 昭和17年(1942年)には配給の円滑適正化の名のもとに、和菓子業者の整理統合が押し進められ、次々と転廃業に追い込まれた。危機感を抱いた京都の表千家、裏千家など九流派の茶道家たちは、昭和17年(1942年)2月に「京都茶道教材協議会」を発足させ、茶菓子の確保を図った。その結果、同年3月から茶道の稽古用菓子の特別配給が認められた。京都府も戦時下において残すべき伝統的な和菓子の選定を進めることになり、9月には「生菓子特殊品審査会」を立ち上げた。結局、約80の候補和菓子の中から、一店につき一品目という制限を設けた上で、農林省の規定に基づき、和生菓子特殊銘柄品として18品目を指定した。川端道喜のちまきも指定品目に選ばれたため、「特殊銘柄品」として製造販売が認められた。 ところが戦時下の経済状況の著しい悪化によって「和生菓子特殊銘柄品」の指定も有名無実化した。京都府当局は識者の意見に基づき、改めて川端道喜など7軒の和菓子店で「京都銘菓協会」を組織させた。「京都銘菓協会」以外で営業を続けられたのは虎屋など数軒の和菓子店に過ぎず、終戦時までまがりなりにも営業が認められた京都の和菓子店は十数軒に過ぎなかった。しかし「京都銘菓協会」に加入して営業を認められていた川端道喜においても、材料となる砂糖や小豆等の特別配給があったわけではない。そのため通年の営業は不可能で、数カ月に一度程度の配給が行われた後に細々と製造販売を行っていた。しかし結局、昭和19年(1944年)には事実上の休業を余儀なくされた。
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