御朝物とは? わかりやすく解説

御朝物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)

川端道喜」の記事における「御朝物」の解説

16世紀初頭創業した川端道喜は、創業後ほどなく皇室との関係を構築していく。応仁の乱後皇室経済力著しく低下し皇室の支援をすべき室町幕府弱体化して天皇食事の確保ままならない状況に陥っていた。そのような状況下、創業間もない川端道喜は、天皇毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになった伝えられている。 「御朝物」は、蒸したもち米を少し搗いたものをとして塩味潰し餡包んだ、おはぎ、ぼたもちのようなものであった実際、おはぎの原形との説もある。大きさ野球ボールを少し大きくしたくらいのもので、川端道喜はこの「御朝物」を6つ天皇朝食用として毎朝献上するようになったと言われている。 日常食事確保にも汲々としていた宮廷餅屋川端道喜の「御朝物」献上喜び後柏原天皇は「御朝はまだか?」と、「御朝物」の到着急かしたとの逸話伝えられている。「家の鏡」では、「御朝物」の開始当初物資不足していたために硯箱乗せられ褐染かちぞめ)の素袍着た川端道喜皇居毎朝献上していて、餅を「かちん」とも呼ぶのは、褐染素袍着た川端道喜が御朝物を献上していたことが語源であり、物を硯箱乗せて進呈する習わしここから来たと紹介している。 世の中次第落ち着いてくると、硯箱ではなく、御唐櫃名付けられ三重容器入れて宮中搬入されるようになった。そして塩味のおはぎのようであった「御朝物」も器に砂糖薄く敷き砂糖付けながら食べるようになる。「御朝物」は正親町天皇までは実際に食べていたと伝えられているが、後水尾天皇の頃になると食べることは無くなった天皇食べることは無くなったものの、毎朝の「御朝物」の献上吉例として続けられ天皇毎朝朝食前に、献上された「御朝物」を拝見するという一種儀式となる。 川端道喜は「御朝物」を献上するために、現在の京都御苑西隣の店から蛤御門通り正門である建礼門の東隣の門を通行し御所入ったと言われ。京見物の人たちが、「御朝物」献上様子見物していたとのエピソード残っている。やがて毎朝川端道喜通行する門は「道喜門」と呼ばれるようになり、現在の京都御所にも道喜門が遺されている。 在位中に天皇崩御し場合には数日間、「御朝物」の献上中断されるが、新天皇の践祚後に献上再開していた。この「御朝物」の献上東京奠都のため、明治天皇京都出発した明治2年3月7日1869年4月18日)まで継続された。つまり後柏原天皇時代である16世紀初頭から明治初年までの350年余り献上続けられたと伝えられていて、東京奠都後も天皇京都滞在する時には川端道喜は「御朝物」を献上している。

※この「御朝物」の解説は、「川端道喜」の解説の一部です。
「御朝物」を含む「川端道喜」の記事については、「川端道喜」の概要を参照ください。

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