家の鏡の記述から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)
川端道喜の祖は家伝によれば嵯峨天皇で、鬼退治で著名な渡辺綱の流れを継ぐ嵯峨源氏の一員、渡辺氏であるとしている。院政期には北面武士として京都南郊の鳥羽に居住するようになったという。 後述の文化2年(1805年)に完成した、川端道喜の沿革や由緒を記した「家の鏡」によれば、15世紀末から16世紀初頭にかけての後柏原天皇の御代、当時渡辺家の当主であった渡辺進は、渡辺家と以前から繋がりがあった鳥羽在住の中村家の五郎左衛門を婿に取って渡辺家を継がせた。この渡辺五郎左衛門が鳥羽から京都の新在家に移住して餅屋を始めたのが川端道喜の創業であるとしている。 「家の鏡」では、渡辺五郎左衛門が鳥羽から京都の新在家へ転居して餅屋を始めた時期についてははっきりとしないとしている。創業の時期は16世紀初頭の文亀、永正年間と伝えられていて、「家の鏡」には永正8年(1511年)に餅の司に任命されたとしており、同書の系図には永正年間から後述の「御朝物」を天皇に献上するようになったとしている。 創業者の渡辺五郎左衛門は若い頃、久我家に仕えていたことがあり、その時分に久我家の家紋である笹竜胆の紋を拝領したという。渡辺五郎左衛門は出家後、道喜を名乗った。初代道喜は天正20年7月26日(1592年8月23日)に亡くなった。 また道喜の店の前には小川があり、世間の人々は川端の道喜と呼ぶようになり、それがいつしか家名となり、更には付近の町名になったと紹介している。
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