戦時中の須賀田
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「交響的舞曲」を境に、須賀田はフランス印象派的作曲法からドイツ・オーストリアの後期ロマン派の作曲法へと作曲手法を移して行く。緊迫した世相もそのような作品を求めており、コンクールでも高く評価されていたという事情もあった。1939年(昭和14年)には「交響的序曲」作品六が、NHK主催・皇紀2600年奉祝管弦楽曲懸賞・序曲の部に、早坂文雄の「序曲ニ調」と共に入賞、翌40年2月11日の紀元節に山田耕筰指揮・日本放送交響楽団 (新交響楽団の放送時の別称) により放送初演された(原題は「興亜序曲」)。同年、紀元2600年記念日本放送協会コンクールに軍隊行進曲「皇軍」、満州國新京音楽院コンクールに歓喜 (東和行進曲) 、JOAK作曲コンクールに進撃 (航空行進曲) の、3曲の管弦楽のための行進曲が立て続けに入選した。行進曲「皇軍」は作曲当時の録音 (演奏/東京交響楽団) が残されている。この3曲の行進曲はその後、靖國神社春秋臨時大祭に使用のためにJOAKより委嘱された「英霊に捧ぐ」と共に「作品7」として須賀田自身の手によりまとめられた。戦時中の須賀田の活躍は目覚ましく「台湾舞踏曲 (八月十五夜)」、序曲「万民翼賛」、「大平洋円舞曲」、「フーガによる舞踊曲」など、戦争に関連したタイトルを持つものを中心に10曲以上の作品が書かれ、その多くは連日ラジオから放送された。1942年(昭和17年)、日本ビクターの第1回管弦楽曲懸賞に、初の交響曲となる「交響曲第1番ハ長調 (フィルハーモニー交響曲)」作品十四が佳作入選した。(初演指揮は阪本良隆)
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