戦時中まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/16 20:26 UTC 版)
1928年(昭和3年)に入り東京美術学校三年生時に和田英作教室に編入、和田に師事しつつ、同年帝展に「T嬢立像」を出品、これが官展初出品作であると同時に松田の初入選作となる。翌1929年(昭和4年)に義父の死去を経験しつつ、帝展への出品を継続しながら1931年(昭和6年)に東京美術学校を卒業した。 1932年(昭和7年)に上海事変が勃発すると松田は海軍従軍画家として中国の上海に赴き、同年中に帰国している。 1938年(昭和13年)に義母が死去、その後も1939年(昭和14年)文展に「大陸の子」出品、1940年(昭和15年)紀元2600年奉祝展に「老鍛治屋」と官展出品を継続した。この頃、奉祝展と同時に一水会展に「萩咲く庭」「青衣座像」などを出品しており、これが縁となり山下新太郎、石井柏亭と知り合うこととなった。 1944年(昭和19年)まで文展出品を継続しつつ、同年陸軍美術展に「忠烈」「硫黄島決戦」「軍神山崎部隊長像」を出品した。この頃に藤田嗣治と交流しており、また戦火を避けて河田町の自宅を離れ世田谷区八幡山の農家に疎開している。 1945年(昭和20年)、東京大空襲により河田町にあった松田のアトリエは焼失した。
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