戦時中の運航状況と輸送実績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)
「第五青函丸」の記事における「戦時中の運航状況と輸送実績」の解説
1941年(昭和16年)度と1942年(昭和17年)度は、1943年(昭和18年)3月に第四青函丸が就航するまでの車両渡船増強の滞っていた時期であり、青函航路は石炭以外の海運貨物の陸運転移と浮流機雷流入による減便で、その旺盛な輸送需要に応えられず1941年(昭和16年)度貨物輸送量は前年度比101%の213万6106トンと頭打ちで滞貨の山を築いていた。1942年(昭和17年)度には新羅丸の転属や機帆船、温州丸、浦河丸、第五日高丸、幸丸の傭船稼働もあり前年度比109%の234万2457トンを達成していた。しかし石炭輸送量は依然3万2000トン程度と少なく、上り貨物輸送量128万4715トンの3%にも満たなかった。 1943年(昭和18年)3月6日の第四青函丸就航により12往復から14往復へ増便され、3月18日から石炭列車航送が開始された。これによって1943年(昭和18年)度の石炭輸送量は61万4000トンに増加し、上り貨物輸送量201万1079トンの30%に達し、上下合計貨物輸送量も前年度比155%の364万597トンとなった。 1944年(昭和19年)1月3日からは函館港有川埠頭の函館第3岸壁の使用が始まり、同年1月14日にはW1(第五青函丸)が、3月19日にはW2(第六青函丸)が就航し、これらを受け、4月1日から18往復に増便された。同年5月1日には、青森第3岸壁が昼間限定ながら使用開始、両港とも3岸壁使用となって、1往復増の19往復となった。当時1日2往復運航できる船は翔鳳丸型4隻と第三青函丸から第六青函丸までの4隻の計8隻で、これらフル稼働で16往復、第一青函丸と第二青函丸は低速のため2隻で1日3往復運航のため、全10隻フル稼働してようやく19往復であった。さらにW3(第七青函丸)が就航した1944年(昭和19年)7月20日には青森第3岸壁の夜間使用も始まり、21往復運航に増便された。これにより、同年1月の北海道炭航送の月間実績は7万5939トン、3月は8万7180トン、さらに8月は15万6368トンと最大量を記録したものの、4月12日には就航間のないW2(第六青函丸)が機関故障し1.5往復運航した後、4月24日から5月7日まで休航、さらに6月30日にも機関故障し2往復運航不能となり、W3(第七青函丸)も8月30日青森着岸時船首を衝突させ休航後、9月3日から機関不調1.5往復運航となるなど、全船フル稼働などできないまま、1944年(昭和19年)11月22日のW4(第八青函丸)就航時には過酷な運航体制は既に破綻状態で、これ以上の増便はできなかった。それでも1944年(昭和19年)度の石炭輸送量は前年度比240%の147万2000トンに達し、上り貨物輸送量は前年度比130%増の263万7150トンで、石炭の比率は55%となった。しかし上下合計貨物輸送量は前年度比103%の384万8153トンに留まった。これが戦時中の最大貨物輸送量となったが、石炭輸送量は開戦当初予測された1944年(昭和19年)250万トンの59%にすぎなかった。 1945年(昭和20年)2月27日には新造回航中のW5(第九青函丸)が房総半島沿岸で暗礁に乗り上げて沈没、3月6日にはW1(第五青函丸)が青森港で防波堤に衝突して沈没、6月1日にはW6(第十青函丸)が就航したが、船舶、施設とも疲弊はなはだしく、13往復を目標とするに留まった。1945年(昭和20年)度の石炭輸送量は42万2000トンで、そのほとんどが7月空襲までの3ヵ月半の実績であり、その期間は前年並みの石炭輸送が行われていた。
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