戦時中・敗戦後のダブリン総領事とは? わかりやすく解説

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戦時中・敗戦後のダブリン総領事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 04:34 UTC 版)

別府節弥」の記事における「戦時中・敗戦後のダブリン総領事」の解説

1941年開戦先立つ1940年英国リバプール領事であった別府は、イースター蜂起きっかけ英国から分離していたアイルランド民家借りて領事館開設し早くから日本とアイルランドの関係深化努めた第二次世界大戦中中立国であったアイルランドでは諜報合戦繰り広げられており、日本側はわずかな人員領事副領事のみ)であったにもかかわらず十分に機能したというのは別府功績よるもの大きい。当時アイルランド英国敵対しており、1942年2月15日英国軍日本軍降伏したシンガポール陥落の際には、反英活動リーダーであったトム・マリンズが食料提供し、駐ダブリン日本領事館にて祝賀会が行われたという。 終戦時調整においても別府重要な役割果たしており、1945年8月8日ジョセフ・グルー米国長官代理の「日本人意図すれば戦争明日にも終わる」との発言ブレナンアイルランド米国大使から聞き出して外務省へ報告し引き続いて10日にはアイルランド外務次官より、グルー国務長官代理が「皇室存続日本要求米英受け入れる」との見解示しているという情報入手し日本打電している。この「国体護持確証」が14日御前会議聖断根拠一つとなった可能性があるとされている。これらのやり取り電報英国政府暗号学校により傍受解読されており、国立公文書館保管されている。 敗戦後別府領事館内の資産文書引き渡し求め連合国側に対してアイルランド政府陰からのサポートを受けながら、機密文書処分する等の抵抗三年続け1948年帰国後にSCAP拘束された。 司馬遼太郎は『街道をゆく 愛蘭土アイルランド紀行II』で別府のことを「大戦下籠城者」と表現した

※この「戦時中・敗戦後のダブリン総領事」の解説は、「別府節弥」の解説の一部です。
「戦時中・敗戦後のダブリン総領事」を含む「別府節弥」の記事については、「別府節弥」の概要を参照ください。

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